《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B (3647)
日時:2016年10月01日 (土) 07時25分
名前:平賀玄米


皆様、有難うございます。
この第三章は生長の家ともなじみの深い、ハーヴィ・ハードマン博士が登場致します。
ご期待ください。(尚、この章には小見出しはありません。玄米)
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         第三章 ≪神癒力ある科学的基督教≫


「宗教的憧れの夢のないところに、人類の魂は飢え渇く」という諺があります。最近十数年間人類は幾百万となく魂の糧に飢えて餓死に埀(なんな)んとしたのであります。それは偉大なる霊の指導者から憧れの夢を与えられる機会がなかったからであります。宗教への呼び掛けや眞理への道への倫理的進出は、「戦争へ」の呼び掛けの声に溺没せしめられてしまっていたのであります。

若し吾々が原子の破壊力によって、今後幾億萬を数える人類の生命が危殆に瀕するであろうところの次の世界の災害を避けようと欲するならば、吾々は生命への道としての宗教の意義と眞理の新しき信仰への憧憬(あこがれ)を有たなければならないのであります。
余りにも長く唯物的迷信の「古き蛇」が普遍的平和と人類相互兄弟の黄金時代への道を閉塞していたと言えるでしょう。

「時々吾等は、科学が未だこの世界を啓蒙せず、この世界が神の一個の意志によって支配せられているという時代に、そして法則がこの世界を支配しているのだということが明らかにせられない時代に、形式化された教理を依然として既成宗教家達が宣伝しているのを聴くが、これは人間の心を迷妄の雲が覆っている暗黒時代の続きである。」とハードマン博士は言っています。ハードマン博士の宗教は眞に最も合理的なる科学的基督教である。
科学に背反せずして、信仰によって現実世界を健康に幸福に指導せんとするハードマンの神学を次に紹介しようと思うのであります。

つづく
       <平成28年10月1日 謹写> ありがとうございます

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B (3656)
日時:2016年10月02日 (日) 09時21分
名前:平賀玄米


ホルムス博士と共にメンタルサイエンスの共同創始者であるハ―ヴィハードマン博士は米国南インディアナ州の小都市に生まれました。この小さな都市では宗教が市民の主要興味を惹くものの一つだったのです。その頃この町には映画館もなかったし、劇場もありませんでした。ただ一つの蓄音機がその頃の新発明で、興行師が、イヤフォンの付属した円筒型のレコードが回転して音を発する、それも三、四人が一度に聴くことが出来るに過ぎない初期の蓄音機を携えては、聴取料を取って戸毎に聴かせて歩いたものだそうです。聴取料が一レコード五セントだったそうで、その頃少年だったハードマン博士は機械が話をすると言って面白がって聴いたものだそうです。

町の主なる人々の会合は、サロン(社交公館)があってそこで行われ、時々巡回興業のショーなどを集まって観るのでした。少年ハードマンは或る日父に伴れらてこのサロンへ行ったことがあります。一人の少女が大きな広い輪の様なスカートのあるドレスを着て歌を唄うのでしたが、その歌詞の一節毎の終りに、
         わたしは生涯 お酒好きとは 結婚しないわよ

と云う数語が入るのでした。その時のハードマン少年は父の隣の椅子席にいる一人の男が「いやはや、それではあの少女はこの界隈では結婚の相手はありますまい」と父に対って言うのを聴きました。この小さな街の人々は、それ程お酒が好きだったとも云えましょう。

随ってその反面、彼等の社会生活最大の贖い的手段として、教会が盛んだったとも云えるのであります。無論、教会には普通の教会礼拝の他にリバイバルミーティングと云う信仰興奮の激越的場面を演ずる集会も催されたものです。これらの集会は周囲の村々から集まって来る農人達を収容する為に屡々(しばしば)幾つものテントを張って行われたものです。


ハードマン少年が深い宗教的印象を受けたのはこれらのリバイバルの集会に於いてであったのです。リバイバルでは集まった人たちの宗教的熱情が興奮から興奮を喚び、普通の牧師の説教では決して見られない様な熱狂信者の燃え上がる焔のような雄弁が口をついて出るのでした。またそこに歌われる歌は聴衆を強い強い情熱的活動に引きずり込まねばおかないようなものでした。それは単純な調子で、単純な歌詞であっただけ、その繰返しが強く強く魂を揺り動かすのでした
     
        おぉ父よ 新しき輝く世界に家を求めよ
        おぉ父よ 新しき輝く世界に家を求めよ
        おぉ父よ 天なる国に家を求めよ・・・・

やがて、その「父よ」に代わって「母よ」「兄弟よ」「姉妹よ」などとそれは幾度も繰返されのでした。

つづく
       <平成28年10月2日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B (3671)
日時:2016年10月03日 (月) 06時30分
名前:平賀玄米


無論、教会の歌も説教も必ずしも天国のみがその題材であった訳ではないのです。地獄も天国と並んで、その頃の宗教の教材となっていたのです。あらゆる技巧をもって描かれたダンテの地獄篇をあらわした地獄図絵が青く光る輝きをもって教会の壁を飾っていました。

こういう生き生きした宗教的絵画やそれについての説教がハードマン少年の幼い想像に深刻な印象を与えたことは勿論です。少年の心には自分は天国へ迎えられるほどの幸福を受け得る自分だとは信ずることは出来ませんでした。天国の美しさなどは何等の興味を惹かないほどに地獄の恐ろしさがしみじみ心の底深く這入って来るのでした

少年の心はリバイバルの宗教行事が町で行われている間中戦く胸を打ちふるわせて、恐怖の中に吸い込まれるような気持で生活していたのでした。

その頃の教会説教では、少年少女には無責任年齢(accountabili ty of age)と云うものがあるのでした。その年齢に達しない幼少年が死ねば、罪には無責任であって、魂の磨かれていると否とに
拘らず、天国へ行けると言うのでした。ハードマン少年は或る日、フェンシングに使うピケットを作るための老人の仕事を手伝いながら、その老人に、「おじさん、少年が天国へ許されて行ける無責任年齢は何歳なの」と言って聴いた位です。ハードマン博士は今でもそのことを思い出すと見えて、その頃の回想を著書の中で書いているのです。

その年齢を超えることは、ハードマン少年にとってたまらなく恐ろしいことだったのです。
「子供が誰でも天国へ行ける年齢はまず八歳までじゃな」とその老人は答えました。
ハードマン博士はその答えを聴いた時の感慨を回想して「私の心臓は私の内で沈んだ!」と書いています。博士はその頃、その無責任年齢を超過して数ヶ月経っていたのでした。
「愈々これは駄目だ、僕はもう地獄へ行かなければならない。何故私はもう一、二年早く死ななかったのだろうか」と彼は深い深い溜息をつきました。

ハードマン少年にとって。地獄は極めて真実な現実性を以って迫って来る存在でした。何故なら説教にも祈祷にもまざまざと眼に見えるように地獄の恐ろしさが言葉の力で説かれてあったからです。彼はこう考えたのです――あんなに詳しくその有様を話してくれるのは、それはきっとあの人たちは地獄を覗いて来たに違いない。そして救われない子供たちを捉えようと襲い掛かって来る地獄の鬼を実際見て来たのに相違ない。想像はまざまざと現実の様に浮かびます。

「何とかして救われねばならない。若し自分が神への廻心(くらりと振り向くこと)が出来なかったら、自分の運命は定まっているのだ。しかしこれ位で神に許される程度に魂の廻心が完成しただろうかと云うことを確かめてみる道は何処にもない。」ハードマン少年は考えれば考えるほど心細くなるのでした。「救われた人々の天国からの悦びの叫び声を何となくきくようなそんな悦ばしい明るい感じが湧いてこないのはてっきり地獄に定められた運命なのではないだろうか」

ハードマン博士の少年時代のその地方の宗教というものがどういうものであるかと云う事を知らない人々にとっては、どんなに書いても、この少年の深い魂の恐怖は想像することは出来ないかも知れないが、こうしてハードマン少年の宗教心は養われたのでした。

つづく
       <平成28年10月3日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B (3675)
日時:2016年10月04日 (火) 07時43分
名前:平賀玄米


併しやがてハードマン少年にも青年時代が廻って参ります。多くの青年を惹きつける色々の誘惑がやはりハードマン青年をも捉えます。浮世の誘惑に心を奪われている間は、地獄の事はいつの間にか忘れてしまい、時々静かに考える時などに、燃え残った地獄の恐怖が、ほんのわずかにその燻る火影を見せるに過ぎませんでした。

ところがおよそ二十歳の頃メソジスト教会に聖者の様に信仰深い老婦人がいてハードマン青年に魂の問題を諄々と説き聴かせ、魂の救済を痛切に説くのでした。その熱心さに動かされて、彼はついに罪の告白をし、「わが救い主」としてイエスを信ずるということを誓って洗礼を受け、その教会の一員にしてもらったのでした。

ハードマン青年は、自分は洗礼を受けて見たものの、少年時代に目撃したあの熱烈に興奮した信徒のように自分が神の方へ魂が振り向いているだろうかと振り返ってみると、中々魂の中までそんなにスッカリ廻心の出来ている自分でないとわかるのです。聖霊が自分に天降って来たという証拠はない。こんなことで果して救われている自分だろうかと考えると、まことに覚束ない始末である。 

ある親友が、贖われたる人の特権として、吾々信者は完全に罪無きものとして潔められたものだと云う話をしてくれた時にも、「自分には決してそんな特権はない。若し地上の誰かが救われるのだったら、あの少年時代に見聞したあの熱狂的なリバイバルの信者のみだろう」と考えるほかはなかったのです。

人間は疑っていましても、神の方では人間を救わずにはおかないのです。その時既にハードマン青年は神の救いの綱に引き摺られ引き摺られていたのです。

彼の住んでいる町に礼拝所をひらいているきわめて有力な伝道者の主催する祭りにハードマンは惹きつけられたかのよに通い始めました。その伝道者の話す一語一語がまるで殊更彼を目指して言っているようで、生長の家の集まりによくあるように、あの説教者は、誰かに私のことをあらかじめ聞いておいて特に私に聞かす為にそんな話をするのだろう。そうでなければ私の過去の罪について自覚せしめる為に彼は主の使いとして遣わされたる者だろうと思えるのでした。

彼は今迄の宗教的体験を振り返ってみると、自分は、わが救い主としてイエスを嫌々ながら受容れているに過ぎない、随って、実際偽善者であるよりもなお低い階級のクリスチャンに過ぎなかったということがしみじみ思われて来るのでした。

その頃から彼は、自分は救われていると云う神からの確信を得たい、何か自分が救われているとと云う兆(しるし)を得たいと決心して、夜になると屡々田舎の教会へ出掛けるようになりました。
彼は熱心にバイブルを読み、旧約聖書にある預言者やイスラエルの勇者たちの行跡について精通するようになりました。するとギデオンに起こった奇跡、エリヤに起こった奇跡、サムエルに起こった奇跡と同じような奇跡がどうして私には起こらないのだろうか。

それは自分が救われていないからではないだろうか。彼はその頃住んでいた小さな町の周囲に広がっている茂みの中でただ一人、幾度も幾度も神の声を聴こうとして祈るのでしたが、求めるような異象も霊聴も得られないのでした。

つづく
       <平成28年10月4日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B (3685)
日時:2016年10月05日 (水) 07時02分
名前:平賀玄米


二年間、ハードマン青年は、神を求め、神の声を聴こうと一心不乱に祈り続けて見ましたが、何の甲斐もありませんでした。そこで彼は疑い始めたのでした。そこでこの新しい宗教的経験に出発するように導いてくれた親しい深切な老婦人に。返答に困るような色々な難問題を提出して議論し始めたのです。その時この婦人は、悲しそうな調子でこう言った。――

「あなたは悪魔の誘惑の虜になっているんじゃありませんか。悪魔は貴方がイエスを貴方の救済者として信ずる信仰を破壊しょうとしているのです。神の計画と、神の救済とはあまり理智のみで審判(さば)くものではありません。理屈にのみ堕ちたら、あなたは冷たくなって懐疑的になるほかありません。

丁度、その頃彼はエマースンの論文集の一冊を得たのでした。それが旧い宗教の帳を破って新しい宗教的目覚めの黎明をもたらす動機となったのでした。それ以来、彼は色々聖書に関する一層高い見解の批評を書いた色々の書冊を読み、又トーマス・ペインの『理性の時代』などと云う論文を読んだりしました。遂に彼は聖書についての新しい見解を得たのでした。

彼には旧来の見解を必ずしも信奉しない神に就いての自由思想家としてその後の約二十年間の最初の幕が開かれたのです。それは彼にとって不可知論者の時代とも云うべき期間であったのです。

ハードマン青年はもう、人格的な神を信ずる事は出来ませんでした。更に況んや人格的贖罪者を認めるキリスト教をも信ずる事も不可能になったのです。嘗て彼を尊崇せしめていた旧い神学体系も、今では人類の魂の中に不自然な訴えを掻き起し、迷信的恐怖を掻き立てる怪物に過ぎないものに見え始めたのです。併し、それでいて宗教を捨てることも彼には出来ませんでした。

彼の思索は続くのでした。一体宗教の根本になる原理とはなんであろうか。こんなに否定しながらも、宗教を求めてやまない自分の魂の底には、それに代わるべき建設的な思想体系を見出そうとする真摯な努力が潜在しているので、それは決して涜神的な事でも何でもないということがハッキリ自覚出来たのです。

「そうだ、私は眞に神を求めている者であり、新しい神学を打ち立てるべく使命ずけられた者なのだ。」この自覚と共にハードマン博士今日の独創的な神学、メンタルサイエンスの最初の思想が生み出されて来たのでした。それは最も自然であり、最も論理的であり、博士自身の言うところによると、それは「古い神学は必ずしも根本的な変更を来たすものではない、ただそれを一層深く、一層広く、近代の科学思想に調和すべく眞理に穿ち入ったものであるに過ぎない」のです。

つづく
       <平成28年10月5日 謹写> ありがとうございます



尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B (3700)
日時:2016年10月06日 (木) 10時29分
名前:平賀玄米


例えば、進化論と、人間が罪を犯して楽園から追放せられたというような旧い神学とは如何に調和すべきかと云う問題であります。アダムの原罪によって人間が天国から追放せられ、生生世世呪われるということは、人間が無限に進化し行くと云う学説とは調和しない。

大体「罪の意識」というものは、動物にはないのであって人間にのみあるのである。罪を犯してエデンの楽園から追放せられるという意識は、自然の法則を踏み外した為に、その法則と摩擦して,自ら傷つく意識なのである。自動車に轢かれても痛みの意識がなかったら手当を怠って死を招くかも知れない、痛みの意識があるので、その負傷に手当てを加えて健全に返ることが出来るのである。

罪の意識と云うものは、此の魂の痛みの意識であって、人間は罪の意識によって地獄に落ちるのではなく、それは却って罪の意識を持たない獣類よりも人間が進歩している証拠であり、罪の意識があるので、人間は天国へ行くことが出来ないのではなく、却ってこれによって天国へ行くべく魂の向上することが可能であるのだと考えたのでした。

第二に、キリストが処女マリヤに懐妊したという問題はハードマン博士にとっては信ぜられないものでした。何故なら女性一人で自然に懐妊して人間が子供を生むと云うことは、生物学上あり得ないことであったからです。これをハードマン博士は、誰でも人間は、宇宙に満つる神聖なる「生命原理」が受胎して生まれるのだと云うことを象徴的に処女懐妊または神聖受胎と称するのだと解釈しました。

第三にはイエスの贖罪の問題です。一人の人間が全人類の罪の身代わりになって苦しむべく神から定められていると云うことは不合理であり、単なる野蛮人の独断である。イエスの十字架は、自ら進んで、無我の愛によって万人の罪を救い、眞理に目覚めしめんが為に身を犠牲にして挺身すると云うことは、魂を高貴ならしむる行為であり、その模範を示し給うたのがキリストであると解釈する事なら出来る。

キリスト教の敬虔な信者の中には、知らず識らず、他の人の「危害と苦痛」(十字架)とによって自分の安全を求めていると云うような卑怯な兆候さえ見えるのである。『わが苦しみの身代わりとなりて、イエスは十字架にかかり給えり、そのお陰様で私は完全です』などと云う祈りは何という利己主義な祈りだろう、そんな宗教人こそ却って地獄へ堕ちるのではないか」と考えずにはいられませんでした。

つづく
       <平成28年10月6日 謹写> ありがとうございます



尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B (3710)
日時:2016年10月07日 (金) 07時03分
名前:平賀玄米


第四には、イエスの復活の問題です。十字架にかかり給うて三日にして復活したと云う様な事は一種の象徴的神話に過ぎない。人間の肉性を否定し、肉性を十字架にかけて抹殺し、人間は聖霊なり、
神聖受胎なりと自覚する時、人間は霊の永遠性に蘇ることが出来る――これなら合理的であり、信することが出来るとハードマン博士は考えました。

第五には天国の問題です。在来の教理のように、天国は空間的上方にあるのではない。天国は今此処に現実にある。「神の国は此処に見よ、彼処に見よと云うが如くにあるに非ず」、正しき想念と、
高邁尊貴なる生活より生ずる必然的の成果こそ天国の幸福であって、「やがて、何処に」と云うが如き時間空間の如きは何ら天国そのものとは関係はない。それは「時処」を絶した唯心所現の問題だと考え始めたのでした。

こうしてハードマン博士は、罪と魂の救済の問題、処女懐妊、贖罪、復活、天国等の問題を悉く近代のインテリゲンチャの批判力を満足せしめるような具合に解釈して行きました。総括的に言えば、神は宇宙に満つる不変の眞理であって、神が一個の人間の如き人格であって、その好悪によって人間を賞罰したり、又一個の人間とあらわれて万人の罪の身代わりとなったりする存在ではない、という新しい神観が生まれて来たのです。

しかしそれでは尚、何等か物足りないところがあるのです。と云うのはハードマン博士が1箇の人格であり、人格的意識をもって物を感じ、見、考えているのです。その一箇の人格は宇宙大生命(神)から生まれて来たとするならば、その人格的意識なるものは一体何処から生じたものだろうか。
宇宙大生命から生まれて来た個人に、人格的意識がある以上、その本源であるところの宇宙大生命に人格的意識がない筈はないのではなかろうか。

併して宇宙大生命が一個の人格者であるならば、一個の人格であるところの自分と、何か魂の交通があっても好い筈である。こう考えて又しても博士は静かなる処に退いて神に呼び掛けて祈っては見るのです。されど、神を呼べども神答えず、やっぱり人格的神などはないのじゃないかと失望する。失望しながらも求めずにはいられない。否定しては求め、求めては否定しつつ、博士はやがて遂に「生ける神」に対面したのです。

生ける神への対面」と申しますと、読者はどんな劇的シーンがあったのかと思われるかも知れませんが、それは至極簡単なことなのです。「神は自分の内に宿り給う」と云うことだったのです。
メェテルリンクの『青い鳥』の戯曲に出て来るチルチル・ミチルは、青い鳥を求め求めて旅をしても見つからないで、自分の家へ帰って来るとあんなにも求めていた青い鳥が既にいたと云うことが書かれていますが、ハードマンも、あんなにも遠く遠く天国に、宇宙に、外に、人格的神を求めていましたが、気がついて見れば、自己の内にその人格的神がいたのだと判りました。「これこそ、天の父我にいまして」とイエスの説いたところの父なる神であったのだと気がついたのです。

つづく
       <平成28年10月7日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B (3726)
日時:2016年10月08日 (土) 11時23分
名前:平賀玄米

 
イエスが、如何にして「わが内にいます天の父」を見出しす様になったかを考えて見ますに、イエスは母マリヤが大工ヨセフと婚約しましたまままだ結婚しないうちにうまれた。彼の眞の父は大工ヨセフではないのである。――こういう事実が、いつかは近隣に知られずにはいなかったのでしょう。色々の噂が立ちます。子供たちもその噂を聞きます。「おいお前のお父さんは何処にいるんだ」などと近所の子供たちから虐められたことでしょう。イエスは悲しくなって自宅に帰り母マリヤに訴えます。「母さん、僕の本当の父さんは何処にいるのです。一体誰なのです」と訊きます。マリヤは「あなたのお父さんは神様なのだよ」と簡単に答えたことでしょう。

イエスはこうして自分は神の子だ、自分の父は「天の父だ」と知ったのです。そしてハードマン博士と同じように、「天の父」と話したい、人格的に接触したい、父の顔を一目見たいと思わずにはいられなかったことでしょう。そして外にそれを求めている間は真に父を知ることが出来なかった。そして最後に「天の父われにいます」と自覚するに到ったのだと思われます。

神は我ら自身の内に「無言の協力者」として宿り給うのです。それはモーセが燃ゆる叢林の前にて声を聴いた神であり、ヨシュアに対して「汝強くあれ、きわめて勇敢であれ、主なる汝の神、汝のゆくところに常に汝と偕にあり」と言い給いし神であり、エリヤが敵より逃れて山の奥に安全を求めた時にその失望のどん底に「静かなる小さき声」の内より囁くのをきいて勇気を取り戻したと云う神である。神の声は外から聴かれるように見えるけれども、内なる声が客観化して「静かなる小さき啓示の声」となって聴こえるのである。

必ずしも聴覚的に幻聴的に聴こえる事を必要とするものではない。この「見えざる協力者」は常にわが内に宿り給うて、吾らに智慧と愛と生命と力と日々に無くてならぬものを与え給うのである。指一本吾らが上げるのも、この「内に宿る生命力」の協力なしには上げることは出来ないのである。

吾々が眠っている間、有機的化学作用を行って食物を消化し、老廃物を篩(ふる)い分け、一定の処に運び、心臓を鼓動せしめ、肺臓を呼吸せしめなどしている力は、この「見えざる協力者」の智慧であり力であると云わなければならないのである。内に宿るこの力は単なる自然界の無機的法則と云うようなものではなく、個性的な働きをしているのであって、必要に応じて、呼べば応える働きをしているのである。

つづく
       <平成28年10月8日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B (3763)
日時:2016年10月11日 (火) 14時39分
名前:平賀玄米


吾々の外に、宇宙に充ち満ちています神は、呼べば応える式には人格的ではない。それは絶対的な法則として、不変であり、何等の容赦もない。火の燃ゆる中に身を投ずれば如何なる人をも焼き殺すところの神である。併し吾が「内に宿り給う」ところの神は、吾らが過って火に身を投ぜんとする時に、火に投ぜしめざるように「内から導き」又は、「内から囁く」ところの摂理の神である。或はやがて転覆する筈の汽車に、却って乗り遅れしむるところの神である。

何となく其処へ行きたくなかったので、遅れて行って助かったなどという経験は、神を信ずる者にはよくあることである。これは「内から囁く神」の賜である。――ハードマン博士は、此の内なる神の囁きに耳を傾け、内なる神に呼び掛け求むる新しきキリスト教をつくったのです。

これまでの普通のキリスト教では三種の神を立てています。天の父と、聖霊と、神の子イエスが即ちそれです。中には更に聖母マリヤを礼拝する宗派もあります。しかしこれらの教派はどちらかというと神を、聖霊を、イエスを、聖母マリヤを、自分と対立的に置いて、それを外的存在として礼拝し、祈るのです。

キリスト教に限らず、仏教でも、即身成仏の真言宗又は見性成仏の禅宗等聖道門以外の宗教は概ね外に神又は仏をおいて拝むのです。「これが即ち、既成宗教の大いなる幻覚だ」(The great illusion of organized religion)とハードマン博士は言っています。「吾々は『見えざる協力者』なる内なる神を知る前に、先ずかかる幻覚から脱する必要があるのである。吾々が内なる神に背を向け、外に神を求めている限りに於いて、魂の内部に住んでいるところの神を強く否定することになるのである。そして確乎不動の法則は働きて、吾々自身が内部の神を否定すれば、神も又吾々を否定し給うのである。何故なら、個(individual)の魂の内部にこそ、いと高き者の聖所があり、見えざる神の聖壇とその神殿がるのである。」 (The Silent Partner P.27)

まことにハードマン博士の到達したところの「内部の神」の自覚こそ、仏教の自性清浄心の自覚であり、生長の家が再発見したる「内部の神の奇跡」の流れ出ずる源泉であるのであります。
ハードマン博士が私の『生命の實相』の英訳をお読みになって、同一眞理を洋の東西に於いて発見せりとて、私の誕生日に讃頌の詩を送って来られたのもゆえあるかなと言い得るのであります。

博士は又言われています。「貴下が親しく、外に神がましまして我らの求めをきき給うと云う大いなる幻覚から一転して、貴下の内部に神宿りて、その神が現実的人格であり、個性化セル霊的実在であると云う考えを採用せられたりとせよ。又イエスが『内部の神』に対して名を与えたる如くそれに名称を与えよ。必ずしもイエスが与えた通りの名称『吾に宿る父』と云う名でなければならないと云うことはないのである。

力と生命と智慧とを有する見えざる内部の協力者と云う意味で貴下の心にピッタリするどんな名称を与えてもよいのである。」(前同書、同頁)
だから吾々はこれに対して、阿弥陀仏と呼び、或は不動明王と称し、或は観音菩薩と称し、住吉大神と称しても差し支えはないのです。神は本来「無名」であって、その神名は吾々が、象徴的に名づけるに過ぎないのであるからです。

だからハードマン博士のメンタルサイエンスは万教帰一的であって、決して排他的宗教ではない。先ずその神の内容を認めよ。而してその神が「内部の視えざる協力者」として自己の内部に宿ることを認めよ、名称は「實相」と呼ぼうが、何と呼ぼうが差し支えないと云う点は全く生長の家と同じなのであります。

つづく
       <平成28年10月11日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B (3782)
日時:2016年10月12日 (水) 15時51分
名前:平賀玄米


ハードマン博士は「實相」と云う語を、“Divine Self”(聖我)と称んでいます。或は又 “In-Dweling Master”(内在のキリスト)と称んでいます。博士は耶蘇の伝記を読んでみても、十二使徒と云うのは自分の「肉体に属する心」の象徴であり、イエスは眞理そのもの、「聖我」そのものの象徴として観ずるのでした。それは「肉の心」が「聖我」に対して或は叛き或は順う全く一種の荘厳なる象徴劇であると見えたのでした。

イエスは決して既に死せる歴史上の人物ではなくして、自分の内に「聖我」として宿っていると云うことがわかったのでした。常にイエスは吾と偕にあり、吾れ何処(いずこ)に行こうとも、自己の「實相我」「眞實我」として自己生命の中心をなし、実質を成していると感じられるようになったのでした。

「救い主」とかメシヤとか云うものが人類を救うのではない。既に「救い主」は我らの内部に来たり給うているのである。既に我らは救われているのである。眞の自分自身は神の子なのである。
ただそれを自覚せしめ、生命顕現の法則をば、「われは道なり、眞理なり」とイエスの言われたところの道を、人生の主人公となるところの眞理を、全人類に知らしむれば、そこに直ちに神の国は実現するのだと云うことがわかったのでした。

何故なら全ての人がこの理想によって生活するとき、全人類は直ちにイエスの如くなり、利己主義や、残虐行為や、正義に背く一切の悪は無くなり、自己と等しく他の人々にも「内在の神性」を認めるが故に、万人互いに相互礼拝の生活を送るようになるからです。

つづく
       <平成28年10月12日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3803)
日時:2016年10月17日 (月) 06時51分
名前:平賀玄米


「あんな人を拝めるものですか。だって彼の人は自己に宿る神を自覚していないのですもの」と言う人があるかも知れません。そういう人に対して博士は言う、「かかる人々のあることを自分も認める。併しそれに対しても彼に宿る「見えざる協力者」を自分は尊敬せずにはいられないのです。彼がたとい隣人らしからざる、神の子たる兄弟らしからざる行為を為そうとも、それは問うところではない。自分は彼と同じレベルに降りて行きて、彼が私に為したる悪に対して、悪を以って報いようとは思わない。若し自分が悪を為せば、悪によって自分が苦しむのである。

イエスは『剣をとる者は剣によって滅びる。』と言い給う。自分が悪を為せば折角自分に宿っている最高の力である神霊の力を自ら拒絶することになる。自分は自己に宿る主の教えに従って平和の道を行く。そして未だ自己の神性を自覚せざる敵対者から自分を護るほかはないと知る」と言っているのです。ハードマン博士のメンタルサイエンスは全く平和の宗教なのです。

「経験の教うる所に随えば、暴力を用いなければならないような位置に置かれた時に、この眞理を当て嵌めれば、静かに立って見ているだけで、自分を害しようとしていた力が、最も驚くべき不思議な方法で自然に武装解除せられることがわかるのである。自分を打とうとして振り上げられたる腕は『彼』――我が主――がその打撃を封殺し、振り上げた腕を麻痺せしめ給う。自分は彼の憤りを克服し、自分に対する害念を粉砕し得る力のましますことを知るが故に、何人が自分に何を為そうとも恐れはしないのである」とハードマン博士は眞理を知る人の力の如何に強きかを信念をもって述べておられるのです。

つづく
       <平成28年10月17日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3813)
日時:2016年10月18日 (火) 09時38分
名前:平賀玄米


以上の如き、如何なる敵をも無害たらしめると云う強い自信の他に、ハードマン博士はまた深い反省をもってこう言っているのです。「若し私の住む世界に何か問題が起こるならば、それは常に神と一体であると云う『禍を防ぐための』意識の防御壁の扉を、いつか知らず識らず幾分でも開いていた結果にほかならないのである。困難なる問題を生起せしめた責任は、實にこの肉体我の故意(ことさら)なる忘失か、不用意なる忘失かにあるのである。しかも自分がそれに値いしないに拘らず、しかも度々神に護られていることを自分は発見するのである。」(同書31頁)

博士にとっては、ひとり静かなる叢林に神を求めて、神の直接の御声を、その触手を感じたいと祈っていた神が、いまや、自分の内部に息づいていることを発見したのです。
こうして「内部に宿る神」を自覚したるハードマン博士は、飛行機に乗って唯一人蒼空を翔る時にも、奥山深く唯一人分け入る時にも、そんなにも親しく内部に宿る神と偕なることを感ずることが出来るようになったのである。「その親しさは、人間の友人と一緒にいるよりももっと近しい満足な感じである」と言っていられます。

「私は、私の周囲の全てのものに、かがよう華に、聳ゆる樹々に、そして森に、平野に、その不思議にして妙なる姿に、神の生ける息吹を感ずるのである。私はハ―ヴィ・ハードマンとして私の内にそれ自身意識ある個性として顕現し給える普遍的生命を感ずると共に、その同じ生命が、植物にも昆虫にも、動物にも顕れていることを感ずる。そして、吾々は、それらの兄弟たちの生命と魂の歓びを交通することが出来る妙なる言葉≠持っている。吾人はこれを称んで美と云うのであるが、これこそ眞に『神』がそこにあらわれているのである。私は総ての生命と眞に兄弟であると云うことを感ずる、何故なら、それらは吾々と同じ本源から生命の流れを汲める兄弟たちであるからである。」(同書32頁)

ここに到ってハードマン博士のメンタルサイエンスの哲学は、万物同根、一切衆生悉有佛性、有情非情同時成道の釈迦の悟りと同じ境地に達したのです。もう佛教だ、基督教だと、宗派をかまえて争う必要はない、ひとたび旧いキリスト教を否定し去ったあとに、新しいキリスト教が佛教とも一致しながら、他を排斥しないところの恰も「生長の家」の如き万教帰一的な宗教が出現したのです。

つづく
       <平成28年10月18日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3820)
日時:2016年10月19日 (水) 06時32分
名前:平賀玄米


ハードマン博士はキリストを信ずると云うことは人間耶蘇を信ずることではない。「我に宿るキリスト」――内在の神の子――より大なる我――を信ずることであると悟ったのです。

イエスの教えた眞理は、「天の父我に宿り給うてすべてのことを為さしめ給う」と云う眞理です。
然らばその天の父とはなんであるか、イエスは「天国は汝の内にあり」と言っているから、天の父とは、「吾々の内に宿り給う父」にほかならないと云うことになるのです。

神は外在の神としては、宇宙に充ち満ちてい給い、宇宙の法則として、自然界の法則として、原因結果の法則として、それは一歩も呵責し給わない冷然たる厳然たる存在であり、いくら祈っても、その法則の実施を容赦し給うものはないのです。

しかし「内在の神」は愛の神であり、人格の神であり、「我が祈りに聴き給う神」であり、わが内に宿り給うて、導き、助け、護り、与え、愛し、育み、供給し給い、眠っている間もあらゆる生理的機能を順調に行い給い、病を癒し給い、悩みと煩いとを除き給うのです。

博士は言う「われに宿るキリスト――我に宿る神の子として諸君の内に内在せる人格としての神の霊を信ずる信仰にまで諸君の信仰が高まらない限りは、五官の心の迷いから来る錯誤と紛糾とを避けることは出来ない」と。

つづく
       <平成28年10月19日 謹写> ありがとうございます



尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3836)
日時:2016年10月20日 (木) 09時49分
名前:平賀玄米


ハードマン神学の主要点は、人間の内部の實相にキリストが宿っていると云うことなのです。
(ヨハネ伝「われ行きて汝等に来たるなり」)そしてその「内在のキリスト」を自覚するとき、内在のキリストの智慧と、直覚と、洞察と、無限の生命が湧出する、それによって一切の悪は征服され、病気は癒え、悩みは除かれると云うのです。

その内在のキリストを称して“Greater Self”(大我)と称している点からも、佛教的なキリスト教だと言うことが出来るのです。或る聖者は「汝一人なる時も二人なりと信ぜよ。その一人は神である」と言ったが、正にハードマン博士の新しき宗教はそれなのです。

ハードマン神学に於ける人間は、「肉体の人間」と「神の子なる人間」と、「五官智の人間」と、「聖霊なる人間」との二つの「我」があると云うのです。

「肉体の人間」「五官智の人間」は迷い躓き失敗するが、「神の子なる人間」「聖霊なる人間」は前者の「黙々たる協力者」(Silent Partner)として、その沈黙の底から視えざる暗黙の導きと囁きとを与えて、平和と幸福と繁栄の世界へ連れ行き給うのだと言っています。

ハードマン博士に『吾等の二つの心の相互の牽引』(Making Our Two Mainds Pull Together )と云う論文があります。それには、この視えざる「黙々たる協力者」の働きは吾々の眠っている時に行われる生理作用に於いて最もよく認めることが出来ると説明されてあります。

このことは博士の他の論文にも諸所に散見するのでありますが、呼吸、消化、同化、排泄、心臓の鼓動、血液循環等が、何ら吾らの現在意識の工夫考慮なしに行われているのは、この視えざる「黙々たる協力者」の管理によって行われているのです。

心理学者や、その他のニューソートの著作家が「潜在意識の作用」と言うところを、博士は「黙々たる協力者の管理による」と言っているのです。

肉体は一種の機械的装置であるには相違ない。併しその作用の管理は「心」によって行われていることは否定出来ない。「心」が羞恥を感ずれば、血行に変化を起こして顔面は紅をさし、心臓が高鳴るし、心が憂慮悲痛すれば顔色蒼白となり、心臓の鼓動は抑制されて遅くなる。憤れば怒髪天を衝き、筋肉及び皮膚は収縮する。

憂慮心配が長引けば不眠を生じ。或は糖尿を排泄し、神経衰弱症となるなど、肉体なる機械装置を利用して内部の生理作用を営んでいるのは此の「心」の働きによるのです。「心」は吾々の内部に宿っている化学者だと云うことが出来るのです。ハードマン博士はこれを「内在の化学者」(Inner Chemist)と言っています。

つづく
       <平成28年10月20日 謹写> ありがとうございます

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3846)
日時:2016年10月21日 (金) 09時48分
名前:平賀玄米


併し、たしかに「心」に二種ある。怒髪天を衝かしめ、筋肉を収縮し、血行を不調にし、顔面を蒼白又は紅潮せしめる如き、「不調和なる心」に吾等の全肉体機構が支配されている限りに於いてその人の肉体は健康を完全に維持することは出来ないのです。

或いは又、「心」怒りて人を罵倒し、攻撃し、或は「心」がいらざる恐怖と憂慮に満たされて周囲と境遇に立ち向かえば、肉体が不健全になると同様、吾々の外界も不健全不調和なるものとなるのです。かかる場合の心は「肉に即(つ)ける心」であって、内在の心――「我れに宿るキリスト」なる心ではないのです。

これは、「肉に即(つ)ける心」(五官の心)が、内在の心(黙々たる協力者たる「内在の化学者」)の作用を掻き乱したのです。この肉に即(つ)ける心は、「表面」の心(Surface Mind)であり、
「黙々たる協力者」なる心は、吾等の眞の自我(本質的心――Substance Mind)なのです。

吾らの眞の自我は、潜在意識として、吾等の内部生理機構や、直覚や洞察や予覚や叡智や虫の知らせなどを司りつつ、宇宙の大我に瞑合し、宇宙万般の出来事に連絡を保ち、宇宙の総ての人間及び生物に連繋を持っているのであるから、吾等の「表面の心」が如何に感じ、如何に意志し、如何に念ずるかは直ちに宇宙万般の出来事に影響を与え、宇宙全体の人間及び生物の動きに感応を与えることになるのです。

だから吾等の「表面の心」が如何に感じ、如何に意志し、如何に想念するかということは重大なる問題であり、表面の心の動きの印象は、自己の潜在意識を媒介として、宇宙万般の動きに感応することになるのです。

だから吾人の人生観が変わると云う事は単に「自己の肉体」の健不健に影響を与えるだけではなく、「自己の境遇及び環境」を一変することにもなるのです。

宇宙大生命(神)は吾人(個生命)に対して完全なる自由を与えていますから、決して「かく感ぜよ」「かく意志せよ」「かく想念せよ」「かかる人生観を持てよ」とは強制し給わない。しかし、自ら進んで、親と子との関係、神と人との関係、大生命と個生命との関係を知るようになり、自らの自由意思で神意(大生命の御心)に随順せんことを希望していられるのです。

吾らが自ら進んで大生命と個生命とが親子の関係にあり、子が親に対して従順に随う事をしない間は、吾らは聖書の中に比喩を以って示されている「放蕩息子」であり、それは、徒に自由意志の世界を彷徨(さまよ)い歩いて不幸災難病気等に見舞われるに過ぎないのです。

吾等の自由意志は、その「天の父」を見出し、「天の父」のみもとに来たり、「天の父」の御心と一体になることが必要なのです。その時「吾に宿り給う天の父」の御心に導かれて、全ての周囲の出来事は順潮となり、病いも、悩みも、取越し苦労も、現実の一切の紛糾も癒されることになるのです。

つづく
       <平成28年10月21日 謹写> ありがとうございます
 

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3865)
日時:2016年10月24日 (月) 14時52分
名前:平賀玄米


何故、神即ち吾らの内に宿り給う「天の父」は、直接吾々の五官の耳に聴こえる声で啓示を与え、吾らを導き給わないのであろうか。若し直接、「汝かくの如くなせ」と宣うならば、神を信じない者も、直ちに神を信ずることになるであろうし、吾らは迷うことなく、誤ることなく、神の子らしき高邁なる生活を送ることが出来るであろうにと言う人があるかも知れない。

併し、或る特定の危急の場合とか、特に或る使命遂行の場合以外に、神が事毎に「汝かくの如く為せ」などと耳の中で声を出し給うならば、人間の個性としての独立性は侵害され、耳の中の声が五月蠅くて、日常生活が著しく掻き乱されざるを得ないのです。

憑依霊の現象に於いては、耳の中で声を出して、五月蠅くて仕方がなく、どちらが自分やら混雑して判らなくなり、所謂る「人格分裂症」又は「二重人格症」の如き状態となるのであります。

神は決して人間の人格の独立をかくの如きやり方によって侵害しては人間を導き給わないのです。吾に宿る「天の父」はどこまでも「黙々たる協力者」であって見えず聴こえず隠れたる処にいて、それとなく吾等を見看り給い、それとなく導き給うているのです。

「此処に、この事実の中に深遂なる神秘がある」とハードマン博士は言っています。個我は自由人格として何処何処までも人間自身の主人公であらねばならないのですし、「黙々たる協力者」は何処までも「協力者」でなければならないのです。

その為に自由人格者として時々は人間は錯誤を行います。しかしそこにこそ人格の自由の尊厳があるのであるのです。吾々は決して、神なる親の膝に鎖をもって繋ぎとめて置かれはしないのです。
若し吾々が希望しさえすれば聖書の所謂る「放蕩息子」として、法華経の所謂る「長者窮子」として神の膝下から彷徨い出ることも出来るのです。

しかし、やがて放蕩息子は故国へ帰って来るべき本性を持っているのです。何故なら、父と子とは本来一体であるからです。自由意志をもって故国から彷徨い出たところの「個我」は自由意志を持って再び、神の御元へ、即ち、「吾に宿る天の父」の御元へ帰って来て、その導きを好んで受ける気持ちになる時が来るのです。

個生命と大生命(吾に宿る天の父)とは本来別ものではないから、かくて一つに融合するのであります。その融合が完全に行われれば行われるほど、その人の個生命は智慧を増し、愛を増し、力を増して、現実人生を支配する力を増幅し、肉体の健康は増進し、事業は繁栄し欲することは何ら他と衝突することなしに調和してスラスラ行われることになるのです

つづく
       <平成28年10月24日 謹写> ありがとうございます
 

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3892)
日時:2016年10月26日 (水) 15時56分
名前:平賀玄米


ハードマン博士は言う「吾らは、『子』を通して宇宙普遍の父を知るのみである」と。「子」とは「吾に宿るキリスト」であり、吾が内にある「黙々たる協力者」であります。キリストを外に、ユダヤ民族の一人(いちにん)たりし肉体なるイエスにのみ求めてはならないのです。

イエスは「我行きて汝等に来たるなり」(ヨハネ伝)と云う新しき約束によって、「超越外在の神」と「人間」との媒介者となって、天の父の生命が「神の子」として我に宿る事実を自覚せしめ給うたのです。十字架の「十」は結合媒介のしるしであります


吾らはイエスによって媒介され、天の父と偕にあるところの人間は強く、天の父に離れたるところの人間は弱く、恐怖と憂慮と苦痛との餌食にならざるを得ないのです。何故なら彼らは自覚に於いて、小さき有限者に過ぎず、しかも孤立しているから小さき肉体の我は、先ず自分を自覚し、外界を認識し、自分と外界との対立に目覚めるのです。

そして触手を延ばし、意欲を伸ばして外界より求むるものを得ようとします。欲望は限りなく、充足されるものには限りがある。得んとして得られず、求めざる悩みと外敵とは却って侵攻し来たるのです。

或る人はここに於いて人生は「憂怖諸々の苦悩充満せり」(法華経、自我偈)と見るのです。しかしこれは人間生命の實相ではない、意識の未開発な「表面の心」(五官の心)が見た所の仮相に過ぎないのです。小我の心が行き詰まったとき、吾々はついに、観る心を「内に宿るもの」に転回します。そこに見えざる神の導きがあるのです。

放蕩息子はついに故郷に帰って来るのです。そしてそこに生命の故郷(ふるさと)を見出します。其処に黙々として、今までもそれとなく導いていてくれたところの「天の父」がましますことを見出すのです。超越外在の神が、自分の内に「眞の自我」として宿っていたことを発見するのです。その時平和が吾々を訪れて来ます。

ハードマン博士は言う。「結果があなたの実生活に現れて参ります。そんなにも永い間あなたを苦しめていた或る奮(ふる)い問題が突然として解決を来たします。あなたの長い間の取越し苦労の性癖が拭われたように清められ、どうしてこんなに自分は取越し苦労しなくなったのだろうと、自ら怪しむようになるでしょう。

自分に常に敵対し、自分を常に冷視していた反対者がいつの間にか全くあなたの前から姿を消すか或は全く兄弟の様な表情をしてあなたの前に現れるでしょう。そしてあなたを助けあなたに深切を示す為に挺身してくれるようになるでしょう。

天の父はあなたに天国の扉を開いてくれたのです。あなたを許し、あなたを知っていると言われ、あなたは遂に『彼』が眞の自分の『生命(いのち)の生命(いのち)』であることを見出すのです。
ここに於いて『彼』はあなたに無限の宝を無限の実証を示し給うのです」(The silent Partner P.39)

では、以上のような実証を、現実生活の中に実現する為にはどうしたら好いのだろうか。その道は狭いけれども平明です。先ず、神は宇宙の何処に もましますと同様に、あなたの中にも必ずましますのだと云う簡単な眞理を受け容れることから始まるのです。

神はあなたの内に人として具現していられるのです。それを先ず信ずることです。そして黙想又は祈りの内に、そしてその神に対して人間の友達に又は肉親の父親に話しかけるが如く、気取らないで、素直な心で話しかければ好いのです。これが天の父の国の扉を叩いていることになるのです。

つづく
       <平成28年10月26日 謹写> ありがとうございます
 

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3911)
日時:2016年10月31日 (月) 07時02分
名前:平賀玄米


ハードマン博士の教会で、どういう祈りをやっているかと云うことは、次に掲ぐる博士のメンタルサイエンス・インスチュート主催の1946年1月20日ブロードウェー劇場に於ける日曜礼拝大会の順序書きを見ればわかるでしょう。
   序曲の次に左の如き讃歌が楽音なめらかに流れ出ます。

HYMN――Softly and Tenderiy
Softly and tenderiy love now is healing.
Healing both you and me,
Stand at the portal of thought ever knowing
Love cares for you and me.
CHORUS–Dear one, believe and know, Ye who are doubting believe and know. Earnestly,
Love now is healing. Healing both you and me.
O know the peace and the love of our Father,
Promised for you and for me;
Tho’ we have doubted God’s wonderful power,
He bless you and me.

讃  歌
     やさしくも、いとやさしくも、
     やさしくも、いとやさしくも、
       愛は今いやしたまえり、
     いやしたまえり ともども 我らを、
     つねに知らざるところなき
       心の門にたちたまい、
    神の聖愛(みあい)はみまもれり、君と我とを。
        合  唱
    愛する者よ、信ぜよ、知れよ。疑う汝ら信ぜよ知れよ。たゆむことなく、いとやさしくも、
    愛の癒しは今もつづけり、愛の癒しは君と我とに。
      あわれ知るべし、父が我らに
      約束したまう平和と愛を、
      不可思議力を疑うとても
      神は吾らを祝福したまう。
    (この讃歌を静かに心の中で瞑想し、やがて心の中にその応答として次の如く念ずるのである。瞑想語英文省略)
「吾は神の無限の愛と無限の智慧とをもって安全に包まれているのである。
 吾は神の無限の愛と無限の智慧とをもって安全に包まれているのである。
 神の愛が、神の愛が、無限の愛が、そして智慧が・・・」(谷口雅春・概訳)

上記の讃歌と瞑想の語とを見ると、全く生長の家の神想観に於いて念ずる言葉と酷似していることを見出すのである。生長の家の信者たちも、この通り念ぜられても好いし、英語を知っている人は、英文のまま以上の讃歌を心に念ぜられるも好いことです。

何故なら、あまり念ずる言葉が毎回同一であって、心がその言葉に慣れ過ぎてくると折角の思念の言葉も感銘が薄れて来、心に眞に念ぜずしてただ機械的にある言葉を繰り返している事、恰も慣れた歩行が何ら心に歩行を思わずに行われるのと同様になるからです。

静かに呼吸をしながら「やさしく、いとやさしく、いとやさしく神の愛が流れ入って、今自分をそして諸君を癒し給いつつある」と念ずることや「神の無限の智慧と愛とが、自分を一ぱいに包んでいる」と念ずることなどは、身近に神の生命を、息吹を、愛を、保護を、智慧の導きを感ずる事になりますから、二つの心、「個」としての「表面の心」と「我に宿る天の父」としての「内部の心」との融合に最も妙なる結果を齎すことになるのであります。

つづく
       <平成28年10月31日 謹写> ありがとうございます
 

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3929)
日時:2016年11月04日 (金) 11時14分
名前:平賀玄米


「我に宿る天の父」の力は、それは宿っているだけであって、無相にして、内部包蔵の無限の力はこれを認めた程度に従って現れて来ると云うのです。認めなければ現れて来ないばかりか、虚の想念を心に描けば、虚の映像さえも、この現象界に現れて来るのです。

もし嬰児期又は幼年期にこの内部の心に自己の劣等感を印象せしむれば、その印象は何らかの手段をもってこれを訂正又は抹消しない限りは、その劣等感に妨げられて、自己が如何に正しくとも、正しいと主張する力を失い、自己に如何に能力があろうとも自己の能力を主張する力を失い、ついにこの世の中に成す無き劣等者となってしまうのであります。

ハードマン神学によれば、全ての生きとし生くるものは無論のこと、無機物と雖も、或る形を表現している以上は、無限者(神)の心の中に描かれたる想念の客観的表現(objective mani-estation of idea)だと云うのです。換言すれば、全ての事物の本源は「宇宙の心」であり、「宇宙の心」が思い浮かべた想念又は観念が形あるものの原型となってついにを形成するに至ると云うのです。

このことを博士は印度のリグヴェダの聖典と旧約聖書の創世記の第一章を引用しているのです。「そこには有もなければ無もなかった。主は想念によって海を造り、その内に黄金の卵を埋め・・・・その中に入りたまい、そしてプラーマ(即ち世界の造り主)として生まれたのである。」(リグヴぇダ、英訳より孫訳)

「はじめに神天地を造り給えり、地は形なく空しくして暗は深淵(わだ)の表面(おもて)にありき。神の霊水の面を覆いたりき。神、光あれと言いたまいき、乃ち光ありき。」(創世記、第一章)
ハードマン博士は、旧約聖書の、「神光あれと言いたまいき、乃ち光ありき」の光の創造は、「言う」ことによって行われている。「言う」とは「想念」の動きであり、リグヴぇダの「主は想念によって海を造り」に一致するのであり、一切の創造は「想念」によって行われるのだと言っていられるのです。

吾々の『生命の實相』では、創世記の「言いたまいき」を引用して、「事物の創造はコトバによって行われた」と論じているのに一致しているのです。コトバと言えば、吾々は直ちに口唇から漏れる響きを指して称すると思い勝ちでありますが、宇宙の最始源には口唇も発声機関もない、吾々のコトバにしても発声機関から出るコトバの以前に心の中でコトバが思い浮かべられて、発声機関はそのコトバを模倣するに過ぎないのであります。心の中で思い浮かべられるコトバとは想念にほかならないのであります。

「想念は生命の振動の一形式である。大生命が心に「光」を想念し思い浮かべたときに、その振動はエネルギーとして表出せられる。永遠者が物質(即ち形態)を思い浮かべた時にも亦、想念の振動はエネルギーとして表出せられる。それは「光」と異なる程度のエネルギー振動だと言うに過ぎない。」(ハードマン著StoryofCreation” P40)

つづく
       <平成28年11月4日 謹写> ありがとうございます
 

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3933)
日時:2016年11月05日 (土) 15時50分
名前:平賀玄米


たとえば此処に物質があって、(それは鉄なら鉄でもよい)光の速度をもって振動し始めたならば、白熱状態となり、ガス状態となり、やがて形がなくなってしまうのです。ある形をしていると云うことは振動数及び振動状態の相違と云うことになります。

即ち物質その他の現象界の一切のものが、或る形をしているというのは、想念が或るエネルギー振動の一定のリズム(律動)を与えているからであって、想念の与えるリズムが変化すれば、その形態が変化するのは吾々の肉体に於いても同様なのであります。ここに病気の起こる原理があり、同時に心を転換することによって病気の治る原理もあるのであります。

宇宙の創造は、その巨大なる方面、そのやや粗雑なる方面や機械的自然現象的方面は、神によって直接行われたのでありますが、最後の精緻な方面を見、感じ、触れなどして有意志的に行う為に、最後に「万物の霊長」として「人間」を「神力の精緻な延長」(即ち神の子)として創造し給うたのであります。

だから、人間はただの被造物ではない。創造主と同じく創造の力を与えられている――この点はハードマン神学は生長の家の生命の實相哲学と同じであり、人間をただの被造物にして、単なる罪の子とするところの在来一般のキリスト教神学と異なるところのものであります。

デカルトが「我れ思う故に我れあり」と言った如く、人間は「想念する意識」であります。而して想念は「創造する力」でありますから、人間は、神と等しく創造者であります。「人間がある観念を思い浮かべる、即ち心の中にある心象(すがた)を描く。この想念は一定の形をもち、その形が原型となって、それに相応ずる事物の形が出来上がるのです。

著述家が書物にある想念を表現せんと欲したり、音楽家が作曲したり、発明家が機械を作ったりするのは、先ず心の中に創造の過程が始まるのです。」(同書41P)

つづく
       <平成28年11月5日 謹写> ありがとうございます
 

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3939)
日時:2016年11月06日 (日) 17時51分
名前:平賀玄米


「神光あれと言い給えば,乃ち光ありき」と言うのと同様に、人間も「鍬よ生ぜよ」と想念が動き始めますと、その形が思い浮かべられ、その資材や加工の方法が思い浮かべられ、その想念を原動力として色々の操作が行われ、ついに鍬が実現するようになるのであります。

神が徐々に粗雑な、骨組み的な設計から、次第に精緻な創造を行って行かれる事は、宇宙の生成、地球上の自然界の事物の生成等に見られるのでありまして、これが所謂る「進化」であります。

生長の家の哲学では、創造は、既にある「完成」が、現象的には「未完成」であるところの「完成」と「未完成」との自己同一によって起こるのだと申します。

進化は「完成の目標」実現に向かって突進します。「完成の目標」がなければ、それはただ乱雑なる運動の連続に過ぎないで、「進化」とは言い難いのであります。

しかも既に「完成」が顕現してしまっていたら「進化」はない。だから既に完成している(理想に於いて)から進化があり、未だ完成していないから進化がある。即ち、進化とは完成と未完成との自己同一によって起こるのであります。

以上は生命の實相哲学であって、博士は、こんなに詳しくは「創造の話」の中で説いてはいられないのでありますが、鋤鍬を人間が次第に改善して進歩せる形に変ずる実例を挙げたのち、ただ次のように言っていられるのです。

「自然界に顕現せる形の進化の原則は、想念の力によって神と等しく一個の創造者であるところの人間の仕事に於ける〔発明改良の〕過程に於いてもそれに相応ずるものがあるのである。」                                              (『創造の話』41P)

つづく
       <平成28年11月6日 謹写> ありがとうございます
 

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3958)
日時:2016年11月09日 (水) 16時28分
名前:平賀玄米


さて、その創造は如何にして行われるかと申しますと、陰陽両儀のムスビによって行われるとする
ところに、ハードマン神学は東洋哲学的なところがあるのであります。

物質は原子として振動しているところのエネルギーで成り立っています。その原子は創造の陽性原理(male principle)と、陰性原理(female principle)と、即ち陰陽の電気エネルギーの小体(陰電子(エレクトロン)と陽電体(プロトン))とから成り立っています。

物理化学の原則は此の両極性を無視しては説明は出来ないのであって「内」「外」「陰」「陽」の両極を有っていないものはないのです。夜と昼、天と地、能動と受動、マイナスとプラス等・・・。

ハードマン博士は「創世記に示されたる創造の物語はこの母性の原理に就いては何ら説明がない」(『創造の話』43P)と言っておられるが、私に言わせれば、創世記の冒頭に「神の霊、水の面を
覆いたりき」と書いてあり、神の霊は「ハタラキかける者」(陽者―父性原理)であり、「水」は「ハタラキかけられる者」(陰者―母性原理)である。

「神光あれと言いたまいき」は能動であり、「乃ち光ありき」は、受動であり、創造に於いては陰陽の出現がはっきり書かれているのです。神は「一」であるが、「陰陽」に分化する。

分化するけれども、本来「一」であるから、元の「一」に合一しようとする。ここに電気に於いては電流を発生し、生物に於いては「生み」の御業が行われる。陰陽、マイナス・プラスは等圧の力でないが故に、力の不平衡から「動くハタラキ」が起こるのです。高い処から低い処へ水が流れるようなものであります。これが電子に於いては電流となり、創造に於いては生みの御業となるのです。

大宇宙に於いては、この陰陽、マイナス・プラスの合一作用は一大旋渦を巻き起こすのであり、それが太陽系統生成以前のかの星雲の渦巻きだと考えられるのでありまして、その内に想念の種子を受胎し、その種子をば形にまで生成する要素をその周囲に引寄せて、想念が具象化したのであります。

つづく
       <平成28年11月9日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (3975)
日時:2016年11月14日 (月) 14時26分
名前:平賀玄米


すべての形ある物の奥には、それを設計又は構想したところの「想念」があると云うのがメンタルサイエンスの根本哲理であります。その点から言えば西田哲学などもメンタルサイエンスの範疇に入る哲学です。併し、西田哲学は「形あるものは形なきものの影である」と云う思想を、実践的に現人生を支配せしむるとことまで発展せしむることが出来ませんでした。

その点ハードマン哲学は一層深い眞理を把握していると言わねばなりません。日本では、それほど宗教も哲学も発達していないくせに、それ故に宗教はただ「墓の彼方」の慰めであり、哲学は「象牙の塔」の中での心的自慰に過ぎないで、何ら現実人生を支配する力がなかった――それにも拘らず、現実人生に無力であることを却って高級であるかのように思い誤り、実際人生を支配して病気を治癒せしめ、境遇を一変せしめる、現実的力のある宗教や哲学を、邪宗邪学として排斥した。

そして先進国であり、戦勝国であるアメリカやイギリスに於いて、クリスチャンサイエンスの如き宗教が現実人生を支配して治病を行い、ニュウソートや、ハードマン神学の如き精神科学乃至宗教哲学が実際に病気を治し、人々を救っている事を知らなかったのです。

知っているにしても、目をむぶって、アメリカをイギリスをただ「物量の国」と宣伝することに懸命になり、クリスチャンサイエンスやニュウソートの宗教や哲学を祖述する「生長の家」の如きを邪教と称して甚だしき圧迫を加え、用紙の配給を拒絶し、言論の自由を奪ったのです。

終戦後に於いてさえも、地方の文芸同人雑誌にすら百五十ポンドの用紙配給を行いながらも、アメリカの宗教と哲学とを紹介しつつ十万の誌友を有して確固な基礎の上に建つ吾らの『白鳩』及び『生長の家』誌はそれぞれ百二十ポンドと八十ポンドとしか用紙を配給しない惨憺たる圧迫振りがその後長く続いたのです。

戦争中は日本の情報局の役目は唯物論であったがゆえに、唯心論を説く我々に圧迫を加えたが、終戦後は戦時の軍閥が退陣したばかりに、共産党員の如き唯物論者が用紙配給委員会に力を揮っていたがために、唯心論者である吾々には更に大いに圧迫を加えたのであります。

彼等は、「宗教の異同によって待遇を差別すべからず」と云うマ司令部の指令を殊更に破って、生長の家がクリスチャンサイエンスや、ニューソートやハードマン神学と同様の宗教を説くが故に(それが同様の宗教である事は、ハードマン博士やホルムス博士が態々私の誕生日に書き送られた『生命の實相』哲学の著者を讃頌する詩の中に明記されているのである)
邪教と言いがかりをつけて差別待遇を与え、用紙の配給を殊更に少なくしているのであります。

それは兎に角、何故彼らがクリスチャンサイエンスや、ニューソートの様な唯心的宗教又は哲学を排斥するかと申しますと、例えば此処に川があってそれに橋を架けたいと欲していても、ただ「心」で、「橋を架けたい、橋を架けたい」と思うだけでは決して橋はかからないではないか。橋を架けるためには、現実に、資材を必要とする。

その資材は物質である。その資材を運ぶためには物質である肉体を是非とも動かす必要があり、「心」で、「物質は動く、物質は動く」などと百年間念じておっても、橋は永久に架かる見込みはない。だからそういう「現実を支配する心の力」などと云うものは迷信だというのであります。
これに対する答をハードマン博士は『信念の一形式』(A Formula for Faith)なる著書の中で次のように述べていられます。

>「此処に例として、一つの橋について考察せしめよ。それは言葉の普通の意味に於いて「物」である。一寸考えると、吾々は橋の本質は物質であって、鋼鉄、木材、コンクリートその他諸種の物質で構成されているのであると言うかも知れない。

併し、再びよく考えて見ると、それは真実だと言うことは出来ないのである。何故なら同じ種類の本質は、鉄鋼山に、森林に、山の採石場に、大自然に到る処に無限に豊富に存在するのである。しかもこれらの物質がそれ自身で橋となる訳ではない。「橋」というものはその構成物質それ自体よりももっと以上の或るものである。

そこで吾々はこう結論することが出来るかも知れない――流れや谷の上に架せられて通路となるような「形」こそ橋をなすのであり、その橋の本質であると。併し、ここにも再び吾々は誤っている。何故なら「形」と云うものはその形を作る心がなしには造られ得ないのである。

橋の形の背後には、そしてその奥にはその形及び目的の実質として心に描かれた形(Mental image)目には視えないが先ずその設計者の心に描かれた構図があるのである。されば、橋が橋たる本質は
心に描かれたる原形――それに加うるに設計者の信念――圧力、抵抗、形状その他材料力学上の諸要素に就いての総合的な観察から来るところの、これで河の上に大丈夫「橋」が架かると云う信念――とで出来上がるのである。

これらの全ては本来、心的観念であり、事物構成の本質は「信念」であるのである。自然界に於ける神の法則、材料力学上の法則、数学の法則等に対する信念なしには、如何なる技師も橋の工作には取掛る訳はない。」(信念の一形式13P)

つづく
       <平成28年11月14日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (4001)
日時:2016年11月20日 (日) 16時22分
名前:平賀玄米


ハードマン博士にとっては、「橋、橋に非ず、これを橋と言う。」「橋は信念の具象化なり。」と言うのであります。金剛経の「山、山に非ず、これを山と言う」のと同一哲理であります。

無論、信念のみが決して「橋」を工作するものではない。行動が必要です。その信念を具象化するために適当な手段、方法、努力、色々の知識等々・・・がそれを造構するのに必要ではあります。
併し、それら手段、方法、労力等々は、「これで出来る」と云う信念を基にして動き出すのであり而して設計者の心の中に描かれた構図に導かれて動くのであります。

まことに、心の中の構図は、目的事物の「形」を定め、その「形」を具象化するための動力的推進力は信念であり、信念によって行即ち行動が開始持続せられるのであって、信念がなくなれば、研究も工作も製造も途中で挫折し、心に希望した事物は具象化しなくなるのであります。

そこでハードマン博士は結論して曰う、「すべての事物は心の中に先ず発生する。すべての発明、すべての制作、悉く先ず心の中に形があらわれ、然るのち聡明なる信念が法則と協同することによって、事物は物象面に具体化せる姿は心象面にあるその存在の可視的表現であるのである。」(『信念の一形式』14P)

「物象面に具体化せる姿は、心象面にあるその存在の可視的表現である。」と言うハードマン博士の哲学的表現は、生長の家に於ける「物質も肉体も心の影」なる通俗平易な表現と全く同一なのであります。

哲学が哲学的な生硬晦渋(せいこうかいじゅう)な術語で表現しなければ価値がないと云う考えが、民主的ではないのであります。民主主義的な人生を日本全体に行き互(わた)らすためには、言葉を民衆一般の共有物とならしめねばならないのであります。

学者のみが知る用語、哲学者のみが知る用語、ある種の貴族や特権階級のみが独占せる用語で述べねば学問でない、哲学ではないと云う誤った考えが、日本全体に教育普及を遅らせたのであります。

日本の義務教育の普及は国民の90幾%にも及んだでありましょうが、それは一般通俗の常識であって、眞に学問的な哲学、宗教、科学は、用語の特権階級の独占の故に、一般民衆の独学に不便なるため、日本に於いては、国民の大多数は哲学を知らず、科学を知らず、目に見えざる心の力を説く唯心論と云えば直ちに迷信だと思い、目に見えざる神を知らず、目に見える物の力のみを知る唯物論に陥り、ついに唯物相奪の戦争を惹起したのであります。

吾々の『生命の實相』は生命の哲学を、心理学を、心理学的医学を、学者や特権階級の独占ではないところの、通俗語を用い、フリ仮名を縦横に用いてその意味を明らかにしたために、小学校の卒業生も哲学の意義が明らかになるようにしたのです。

だから燎原の火の如くそれは日本全国に七、八百万部も普及したのであります。その代わりに、哲学を「晦澁な哲学語」の独占する世界だと思っていた所謂る学者階級は、平易通俗なるが故にとて軽蔑し、それを読もうともせず、「生長の家なんかどうせ大したものではない・・・」と言って排斥している間に、その学者の哲学は実生活には何の効用をも発揮せず、日本を敗戦に導いたのであります。

哲学を大学や学者にのみ独占せしめてはならない。用語はもっと平易化せられねばならない。

国語国字の改良問題があるけれども、かかる用語の平易化の方法に於いて自己の哲学を述べ得る哲学者は日本に幾人ありや、わが『生命の實相』哲学以外にはないと思うのであります。

つづく
       <平成28年11月20日 謹写> ありがとうございます

尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (4078)
日時:2016年12月02日 (金) 11時43分
名前:平賀玄米


アメリカの哲学者はエマースンは古典であるから稍々(やや)難解であるが、マーデンの如きニューソートの諸著作や、ウイリアム・ゼームズのプラグマティズムに関する諸論文や、フェンイック・ホルムスの諸著書や、私の今紹介しつつあるハードマン博士の諸著作やは、實に平易通俗な語で、實に深遠な哲理を生活に実践し得るように説いているのです。

哲学を平易通俗な語では説くことは出来ないと云う考えは、学を貴族・学者階級独占の玩具だと考えている誤りなのであります。アメリカの哲学用語は実に平易で通俗であります。

吾々が想念と言うところを、単に“thought”(思い)と言い、「心象」と言うところを“image”又は“mental image”(心の姿)などの俗語で淡々と叙述しているのであります。

日本の哲学もこれに倣うべきであり、そのことに十数年前から着手しているのが生長の家であります。神学及び哲学の民主化こそハードマン博士の使命であり、又吾々「生長の家」の使命なのであります。 

吾人はともすれば、科学の法則に随い、物象を処理し、物象を変形又は化合して色々の物体や建造物や商品を製造する場合、これは純粋に物質上の事柄であって宗教上の信念とは何ら関係がないと
思い勝ちでありますが、実は自然界の法則、科学の法則を不変であり普遍であるとして、朝起きてから眠るまで、平然としてそれを利用している、これにも優る神(又は大自然)への信仰があるであろうか。

吾らは余りにもそれを信じているが故に、そしてそれを余りに日常茶飯事にまで使っているが故に信仰とも信念とも思わなくなっているに過ぎないのです。併し考えて見れば、朝起きて顔を洗うにしても、信仰なくしては顔も洗えない。

若し貴方が「今朝の水は変質していて顔を洗えば、鼻が流れて落ちてしまうかも知れない、眉が溶けて流れてしまうかも知れない」と思ったならば顔一つ洗えないではありませんか。

あらゆる吾等の行動が可能であるのは、確乎不動な法則が自然界を支配していると云う信念に支えられているに過ぎないのです。

しかしてこの確乎不動な「宇宙を貫く」法則こそ物質ではなく、物質以上の力であり、物質を支配するノリであり、何処にも偏在するところの普遍的な叡智であります。

普遍的な叡智者は神でありますから、自然界の法則を信ずる者は神を信ずる者なのです。何人も神を信じていないものはないのです。唯物論者と雖も、それ自身の法式において神を信じているのです。この事実をハードマンは指摘しています。

併し、「心の法則」と「自然現象の法則」との連絡に気が付いていないのです。だから自ら無神論の様に思い間違ったり、神を信ずると思いながらも、不幸に陥ったりするのです。

つづく
       <平成28年12月2日 謹写> ありがとうございます


尊師谷口雅春先生・谷口清超先生共著 <苦難と恐怖の克服法>(人間救いの原理)B  (4115)
日時:2016年12月07日 (水) 10時06分
名前:平賀玄米


さてこの「心の法則」と「自然界の法則」との連絡は何によって行われるのでしょうか。それは、それは吾々の内部に宿る「潜在意識」によって行われるのです。

吾々の心が「潜在意識」に「健康」の念を印象すれば、潜在意識を媒介として、自然現象の一つであるところの生理現象は「健康」になる作用があらわれるのであります。

生理現象は「いのちの現象」であり、「いのち」は神に属するのですから、神の作用でありながら、自然界の現象と同じように、普遍的な自然の科学的法則によって物理化学作用が行われつつ、消化作用に変化を起こしたり、同化吸収されたる栄養物が肉体を構成する形に於いても変化を生じ、或は肥え或は折角の栄養物を糖尿その他の形に於いて排泄してしまったっりするのであります。

それどころか潜在意識を媒介として、「内在の神」に呼びかけたる願いは境遇さえも変化する実例を挙げているのです。だから我らが幸福になり、健康になるには、潜在意識を媒介として、自己に内在する神に幸福と健康とを呼びかけるべきなのです。

諸君よ、この章を一読せられた後、あのブロードウェイ劇場でハードマン博士が催す礼拝祈祷会の祈りの言葉のページを開いて、心静かにその祈りの言葉の通りに瞑想せられよ。潜在意識を媒介として、自然科学の法則以上のものが行われつつあるのであります。

誠に肉体の生理現象は、自然現象と超自然現象との渾然たる統一によって行われており、宇宙普遍の不動の叡智(自然界の法則)なる神の反面と、個人格として顕れて自由選択を行う神の反面とが、
潜在意識を媒介として、「渾一体」に融合しているのであります。

だから宇宙普遍の自然界の化学的法則で消化が行われながら、しかも吾らが自由意志によって印象した心の姿に随って、「やさしく、いとやさしく神の愛が諸君の肉体と境遇とを癒し給い」諸君に
健康と幸福なる運命と豊かなる恵みとを現実に与え給うのであります。

尚、本書の読者は拙著『運命の原理』を併読せられれば一層運命支配の方法につき理解が得られるだろうと思います。さて、次章にはハードマンの心理学を紹介致します。

今回にて第三章「神癒力ある科学的基督教」は完、次回から第四章「日常生活の霊的導き」となります。

       <平成28年12月7日 謹写> ありがとうございます




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