「實相」の完全圓萬をのみ思って、「現象」の不完全に関わらないでいては、地上天国はもたされない (2683) |
- 日時:2016年07月08日 (金) 05時46分
名前:童子
「総裁先生の実相を祈りましょう!」
と言う人が某掲示板にいるが、 その現象の不完全さに眼を瞑っているつもりなのか
谷口輝子先生 『白鳩』誌 昭和40年11月号より
〜 心のままに見る世界 〜
M子さんは、6月号の随筆を読んで、冬子さんの夫や、工場員の夫が、妻を信用しないで、生活費を少しずつ渡して居られるのは、妻が経済観念がないからだと奥様 〈※谷口輝子先生〉 が書いて居られるが、“認めた通りに表れる”という教から言えば、夫が妻を“信用の出来ない女だ”と認めたから、夫の認めた通りに表れたのであって、妻をだらしない女と表れさしたのは夫であると、M子さんは言われるのであった。
自分が変われば対手も変るということは真理である。 自分は輝けば環境も明るくなることも本当である。
『白鳩』誌は婦人雑誌であるから、私は常に婦人を対象として執筆している。
従って婦人である冬子さんや、工場員の妻なる人たちの立場から、その転心を勧めていたのであった。
婦人が先ず立派になって、その夫や世間から信用を受けるようになって欲しいと願うものである。
M子さんは「人を見たら泥坊と思え」というのではなく、「人間神の子」 「悪なし」とどこまでも対手を信じて接して行くべきではないかと言って居られる。
「實相」のみを見て、「現象」に眼をつぶれと言われる訳である。
この「實相」と「現象」との問題は実に大切なことである。
人々はよく「實相」と「現象」とをこんがらかして、訳がわからなくなることがある。
M子さんのように「實相」の完全圓萬をのみ思って、「現象」の不完全に関わらないでいては、地上天国はもたされて来ないと思う。
「實相」の姿が「現象」に表れて来るように、「現象」の処理を立派にやり遂げなければならないのである。
雨降りの日に飛行機に乗って、雨雲を突っ切って高空に出た時、人々は青々と澄み切った大空を眺めることが出来る。
晴れ渡った高空を「實相世界」に喩えたならば、雲の下は「現象世界」である。
現象世界にいる人は、「實相世界は青空であるから、青空と信じて外出しよう」 と言って、晴着のまま傘も持たずに出かけたら、雨にぬれて着物は台なしになってしまう。
現象世界は雨も降れば風も吹くし雪も降るのであるから、天気予報も聞き、空模様を眺めて、雨らしいと思えば、コートも傘も用意せねばならない。
これが現象処理である。
また、風呂の湯加減は丁度よいに定っていると信じて、いきなり飛び込んでしまっては、時には火傷をしたり、時には冷えこんでしまったりするから、矢張り温度をしらべて見て、適当だとわかってから入浴すべきである。
ぬるかったら燃やし、熱かったら水を入れるということ、これが現象処理である。
現象を良くしようと思ったら、現象の対象をよく見きわめて対処しなければならない。
対者を悪く思ったり、対者を疑ったりするのではなく、対者にふさわしい扱い方をしなかったら、自分も対者をも誤らしてしまうことがある。
幼稚園の子供にはそれらしい扱い方をし、大学生にはまたそれにふさわしい運び方をすればよいのであって、幼稚園児も大学生も同じ扱い方をすることは適切ではない。
|
|