《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> 人間救いの原理@ (1784)
日時:2016年06月05日 (日) 07時41分
名前:平賀玄米


皆様、有難うございます。
『善き人生の創造』の次は
谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>( 人間救いの原理)を
謹写投稿させて頂きます。

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    <はしがき>

 人間の苦悩と恐怖とは、神を外にあるものと思い、神を遠くにあるものと思い、しかもその神を閻魔の如く人間を見下ろしていて、神罰を与えるものだと思ったり、人間を地球に生えた黴(かび)だとか「考える葦」だと考えて、自己を弱小視するところから生ずるのである。

 あらゆる人間の不幸や困窮や病弱の奥には、この自己劣等感や自己罪悪感から来る自縄自縛現象があるのである。若し人間から此の自縄自縛を取り去ったならば、人間は本当に解放せられて、あらゆる苦悩と恐怖から自由になるのである。

 天国は、心の眼をひらいて手を伸ばせば届く処にあるのだが、心の眼をひらかないから暗中模索である。先ず正しき信仰を持つことが心の眼をひらく唯一の道である。しかし愚かなる迷信的宗教は信じたれないと言われるであろう。そういう人々は先ず最初に本書のハードマンの心理学及び神学からお読みになるが好い。

 ハードマン博士が大胆に過去の独断的迷信的な外在の神を完全に批判し否定し去って、自己の内に生きる「生命」に神を見出し得た経路は、そう云う懐疑的な人に新しい世界観を与えるであろう。
神は外になくて内にあったのである。それは釈迦が自己の中に佛性を見、キリストが自己の中に「内在の神」を見出したのと同じことである。

 人が、自己の中に内在の神、又は佛性を発見することが出来ず、外に何らかの絶対力や権威を認めている限りに於いて、悩み苦しみ恐怖するほかはない。人生の苦悩と恐怖とを取り去る為には過去の外在の神を捨てて内在の神を発見しなければならないのである。

 併し、ただ単に精神的に苦痛と恐怖とが取り去られるだけではその人は完全に救われたと言う事は出来ないのである。それはただ緒(いとぐち)である。その内在の神がその自覚により目覚めて来たとき、その神が貴下に幸福を齎(もたら)す為に働き出すのである。

 ハードマンの神学にしても、モルガンの神癒科学(デバインサイエンス)にしても、精神の完全なる転向から人間生活を現実に改造し、病を癒し、家庭を幸福にし、経済的にもこれを救済する力をもっているのである。

 精神の転向から、肉体の病気が治るのは心身相関の理により、あり得る事だけれども経済問題は心ではどうにも成らぬと思っている人が多いと思われるが、そういう人は第一章の、「致富繁栄の黄金律」を読んで頂きたい。神は自分の内にあるのだ。その神は自ら助くる者の為に働く、今まで唯物論や無神論だった人が卒然として此の章を読まれると、あまり、今までの御自分の考えと懸隔がるので、そのまま受け容れ難いかも知れない。

かかる人は、全巻を一度通読してから、精神の外界に及ぼす作用を熟知して後、この「致富繁栄の黄金律」を再読せられるならば、自ずからこの眞理が釈然として来るであろうと思う。

                                  著 者 識


  ≪苦難と恐怖の克服法≫ 目 次

第一章 致富繁栄の黄金律

第二章 運命が修正される原理

第三章 神癒力ある科学的基督(キリスト)教

第四章 日常生活の霊的導き

第五章 光明思想の先駆者たち

第六章 モルガンの神癒科学

第七章 神癒科学の理論及び応用

第八章 苦難と恐怖の克服法

 それでは次回から、目次に従い順次投稿させて頂きます。

     <平成28年6月5日 謹写> ありがとうございます 合掌

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> 人間救いの原理 (1794)
日時:2016年06月06日 (月) 06時07分
名前:平賀玄米

   
                ≪苦難と恐怖の克服法≫
                       ―― 人間救いの原理 ――

 
               第一章 致富繁栄の黄金律

     (一)

○人に与えよ、然らば汝らも与えられん。人は量(はか)りをよくし、押し入れ、揺り入れ、溢るるまでにし
 て、汝らの懐中(ふところ)に入れん。汝らおのが量る量(はかり)にて量らるべし。
                                              (ルカ伝 第六章 三八)
○我がものは皆汝の有(もの)、汝の有は我がものなり。     (ヨハネ伝 第十七章 十)

○かくて、わが神は己の富に随い、キリスト・イエスによりて、汝らの凡ての窮乏を栄光のうちに補い 給わん。                                       (ピリピ書 第四章 十九)

 メンタルサイエンスの致富法は以上の如き聖書の聖句を根拠としてそれを実践することにあるのである。吾々が眞に無限の富を自由に駆使しようと思うならば、この場合にも「類は類を招ぶ」、ケチな心はケチな富しか呼び寄せることは出来ないと云う根本的な心の法則と、「富」と云う一見物質と見えるものも、実は「想念」の具象化であるから、「想念」に随って呼び寄せられるものであるとの根本法則の応用に過ぎないのである。

 もし日本人の多数が、特に時の政府が、「富」と云うものを、生長の家やニューソートの如き精神科学(メンタルサイエンス)の原理を充分熟知していて、国富を増進するためには、武力による物質的進出などしなくとも、自給他足、他給自足の心の法則さえ利用すれば、必要にしたがって無尽蔵の供給が神から開かれると云うことを知っていたならば、満州事変、支那事変、太平洋戦争など惹起せずに済んだに相違ないのであって、まことに惜しいことをしたものである。

 しかし今からでも遅くない、それは「与えよ与えられん。」の心の法則を無視して、「奪えば殖える」と云う唯物論的経済法則を信じて、支那大陸及び南洋方面に略奪戦争を起こした報いであるが、業報の一時期を経過したのち、我らが上記ルカ伝第六章三十八節の心の法則に随って、世界に対して「与える」事を、「寄与する」事をのみ心掛ければ、やがて豊かに「人は量(はか)りをよくし、押し入れ、揺り入れ、溢るるまでにして」日本国の懐中(ふところ)に富を無尽蔵に流入してくれるに相違ないのである。

 このこと夢ゆめ疑うべからず、イエスキリストは決して嘘つき給うことはないのである。吾々はこのルカ伝、第六章三十八節の聖句を幼児(おさなご)の心を以ってそのまま信ずれば好いのである。吾々宗教家から見るならば社会主義も資本主義も問題ではない、ただキリストの聖言を信じ且つ実行すると否とに、わが国の盛衰は関係しているのであって、議論やイデオロギーではないのである。

つづく

       <平成28年6月6日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> 人間救いの原理  (1817)
日時:2016年06月07日 (火) 06時29分
名前:平賀玄米

 
    (二)

 メンタルサイエンスの人生支配の根本は、現象界のすべては想念の具象化であり、「愛」がその牽引
力であると云うことである。愛する者からのみ、吾々は愛されるのである。財を得んと欲するならば、財
を愛しなければならない。富を得んと欲するならば、富を愛しなければならない。しかも世界の多く人々
が財貨を得んと欲し、富を獲得せんと欲し、闇を行い、戦争を為し、しかも逆に貧乏のドン底に追いつ
められつつあるのは何故であるだろうか。
 それは、富を求むる人は多けれども、「正しき方法」にて求めない結果そうなるのである。

 では、正しい方法に於いて富を求むるにはどうしたら好いだろうか。富を外形に於いてのみ愛してはならないのである。富を愛し、富に対して求婚するならば、富の魂を掴まなければならないのである。

富と云う外形の影のみに恋して、影と結婚しようと思っても、それは無駄のことである。「形の富」は影に過ぎない、「富」の魂は、即ち「富」の本質は、「人間の幸福に奉仕すると云う精神」なのである。精神を捉えてわがものとするならば、外形は、影であるから自然に吾らに随って来るのである。

――「昔或る処に一人の百姓が付近の森の中で蜜蜂の大群を擁している蜂の巣を見つけたのでした。
これは素晴らしい、自分の農場に蜜蜂を飼うことにすれば、何時も豊富に食卓に蜂蜜があることになる!こう考えた農夫は巣箱を買って、毎日毎日一ダース位づつ蜜蜂を捕獲して来て、その巣箱の中へ入れたのでした。

 そして大分沢山蜜蜂が巣箱の中に収められ、、その巣箱に慣れてきたようでしたから、箱の蓋を開けて蜜をとりにゆくべく蜜蜂を放ったのでした。ところが、蜂の群れは蜜を集めに行くどころか、一直線に森の中の元の巣へと帰って行きました。そこで農夫は面食らって、『こりゃ、どうしたものでしょうか、何故蜜蜂は私の巣箱に帰って来ないのでしょうか』と、専門家の蜜蜂飼いに相談致しました。

 蜜蜂飼の専門家は次のように答えました。
『蜜蜂の群を貴方の農場へ移転するには、唯一つの方法があります。それは蜜蜂の魂を捉えることです。若し貴方が蜜蜂の魂を捉えて来れば、蜜蜂の群はそのまま貴方の農場へ移転してまいります。魂のあるところに外形は従うので。』

『蜜蜂たちの魂とは何ですか?』と農夫はたずねました。『蜜蜂の魂はその女王です。その女王を貴方の巣箱の中へ移しなさい。すると彼らの魂である蜜蜂の女王を楽しませ悦ばせることのみが唯一の目的である残りの蜜蜂は影の形に添うが如く貴方の農場の巣箱へ移住してくるでしょう』
以上は大意をとったものであるが、この寓話は大変面白いと思う。富を得んとすれば、富の魂を捉えれば好いのである。富の魂には男性と女性とがある。

○富には魂の両親があるのである。富の父性霊魂は「人類への奉仕」であり、富の母性霊魂は「豊かさ」と云うことである。この二つの魂が結合する時現象界に具体的な「富」が出生するのである。
                                           (グレン・クラーク氏著書より)

「人類への奉仕」と云う富の魂の要求を満足せしめないで、利己的目的に富が使われている時には、蜜蜂の女王を捉え来たらないでいながら、群蜂を自家の巣箱へ移そうとするのと同じことなのである。富を得る為には、もう一つ「豊かさ」と云う魂が必要である。

蜂を沢山集める為には巣箱が大きくなければならないのである。心の巣箱を大きくして、豊かさの雰囲気を先ず作ることが必要である。富の父性霊魂は最大多数の最大幸福を目的として豊かに、「生命」を、「智慧」を「愛」を、「資本」を、「資源」を「労力」を流すことである。この「流出」こそ、眞の富を生み出す父性霊魂なのである。

 日本にも「道心に衣食あり」とか、「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺があるのは、此の富の父性霊魂の方面を言い表したものなのである。併し、世間に如何に多くの人々が、稼ぎながらも、追いつき来る貧乏のために苦しんでいることであろう。この理由は何処にあるか、それを究明することは光明思想の致富術の眼目であるのである。

つづく
       <平成28年6月7日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> 人間救いの原理  (1831)
日時:2016年06月08日 (水) 07時02分
名前:平賀玄米

 
    (三)

 世間の多くの人々が、稼ぎながらも貧乏の状態を脱することが出来ないのは、その稼ぎの目的が利己主義的「最大多数の最大幸福」と云う富の父性霊魂が欠乏しているか、「心の容れ物」と云う母性霊魂が欠乏しているか、どちらかだと云うことが出来るのである。換言すれば世間の人はあまりに利己主義的であるか、あまりに潔癖すぎて清貧礼賛に陥り過ぎているかしているのである。

あまりに潔癖過ぎる人は、人のために奉仕し、最大多数の最大幸福を念願しているけれども、「神と富とには兼ね仕えること能わず」の信条を守り過ぎているので、富そのものを気嫌いしているのであり、「貧しさ」そのものに魅力を感じて、凡そ富とは正反対であるところの「清貧」を招び寄せるのである。


併し、「神と富とには兼ね仕えること能わず」と云う聖書のコトバは、神は貧乏人のみを愛すると云う意味ではないのである。神は「地に蓄えられた富」を、換言すれば物質を本源として出て来る富とはおよそ「神」とは正反対なるものとして排斥し給うのであって、「天に蓄えられたるとみ」を、換言すれば、神なる本源より必要に応じて湧き出づる富を排斥し給うのではないのである。またいくら蓄えても、「己が為に」蓄えないのならば好いのである。

されば、マタイ伝第六章には、
○汝ら己がために財宝(たから)を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ない、盗人うがちて盗むなり。
 汝ら己がために財宝(たから)を天に積め、かしこは蟲と錆とが損なわず、盗人うがちて盗まぬなり
 汝の財宝(たから)のあるところには、汝の心もあるべし。・・・・・・・汝ら神と富とには兼ね仕えること能わず(マタイ伝、第六章十九――二十二、二十四)

と書かれているのであって、地に積む宝は自己のためであってはならないし、自己のための財宝は天の倉に蓄えて無尽蔵に必要に応じて引き出せば好いのである。また自己のためでない富(公共奉仕の為の財)は地にいくら多く積んでも好いのである。聖書の言葉は微妙に書かれているのであるからそれを見逃してはならないのである。
富の絶対排斥であるならば、イエスは次のような垂訓をなし給う筈はないのである。

 つづく
       <平成28年6月8日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> 人間救いの原理 (1866)
日時:2016年06月09日 (木) 06時49分
名前:平賀玄米

  
   (四)

○求めよ、然らば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。
 すべて求むる者は得、たずぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり。
 汝らのうち、誰かその子パンを求めんに石を与え、魚を求めんに蛇を与えんや。然らば、汝ら悪しき者ながら、善き賜物をその子らに与うるを知る。まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜わざらんや。然らば凡て人に為られんと思うことは、人にも亦その如くせよ。これは律法(おきて)なり、預言者なり。(マタイ伝第七章、七――十二)

 神即ち「天の父」は無尽蔵によき賜物を「天の倉」より与えようと欲していられるのであるが、人間は,「蟲食い錆くさる」地から財宝を得ようとして貧しくなっているに過ぎないのである。天(神の聖意(みこころ))より得たところの財宝は地(人為)より得たる財宝よりも、それを保つに苦労せず、しかも豊かなること限りなく、美しきこと限りがないのであれば、さればイエスの山上の垂訓には、空の鳥と野の百合との比喩を以って次の如く告げ給うのである。

○空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養い給う。汝らは之よりも遥かに優る者ならずや。汝らの中誰か思い煩いて身の丈一尺を加え得んや。また何故に衣のことを思い煩うや、野の百合は如何にして育つかを思え、労せず、紡がざるなり。
 
然れども我汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだにその服装この花の一つにも及(し)かざりき。
今日ありて明日、炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装い給えば、まして汝らをや、あぁ信仰薄き者よ。さらば何を食い、何を飲み、何を着んとて思い煩うな。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給うなり。先ず神の国と神の義とを求めよ。然らば、凡てこれらの物は汝らに加えらるべし。(マタイ伝第六章二十六――三十三)

これこそアメリカのニューソートが、またメンタルサイエンスがその経済支配の金科玉条として生活化しているところの眞理なのである。そこには決して「貧しさ」の礼賛はないのである。「貧乏に満足せよ」とは神は言い給うてはおられないのである。神は我らにソロモン王以上に豊かにそして華麗豊富な富を約束していますのである。

 眞理の言葉はそれを理解する程度に随って、その人に広くもとれ、狭くもとれ、深くも浅くも解釈する事が出来るのである。聖書を百数十回繰り返して読んだけれども何らの現実的功徳も得られなかったと云う人もある。それは文字のみを読んで神の心を読まないからである。神の心を読んだ時に無限の功徳が現実的に現れて来るのである。聖書の解説書とも云うべき『生命の實相』を読んでたちまちその清貧状態を脱却した人も無数にあるのである。

 神は吾々人間――神の子たち――が貧しき状態で生活することを欲していられるのではないのである。人間ですら「善き賜物をその子らに与うるを知る。まして天にいます汝らの父は求むる者に善き物を賜わざらんや」と神は言い賜うのである。

 併しその次に神が示し給うた「然らば凡て人に為られんと思うことは、人にも亦その如くせよ。」と。
諸君は人にその如くしているであろうか。与うることを惜しんではいないであろうか。取上げることを、取立てることをのみ望んでいないであろうか。政府も政党も、与うることを政策に実行せず、取上げたり糾弾したりすることばかりを実行しているならば、それは凡そ神の約束し給いし、豊富無限の約束とは異なるのであることを知らねばならない。

 つづく
       <平成28年6月9日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>  (1890)
日時:2016年06月10日 (金) 05時56分
名前:平賀玄米


 地上を見よ、世界を見よ、宇宙を見よ、何処に、神は「貧しさ」を示し又は求めていられるであろうか。
この世界は華麗豊富の神徳の充満せる世界ではないか。あの差し昇る朝日の荘厳華麗なる姿を見よ。空にかかる虹の光の美しさを見よ。ナイヤガラ瀑布の豪壮雄大な景観を見よ。

 世界一の瀑布と、峡谷と、平原とを有つアメリカ民族の心的生活が、明るく朗らか雄大でコセつかず、惜しみなく儲けて、惜しみなく使う自由主義経済の生活こそ、最も民主主義的であり、神の子の生活に相応しい生活なのである。 

 神が太陽を、無限に近い星辰を、ナイヤガラの瀑布を、グランドの峡谷を、そして大空の懸け橋の様な虹や、見渡す限りはるばるとした太平洋を創造したと云うことを理解するならば、神が神の子であり、万物の霊長であるところの人間にのみ、豊富華麗を拒み給うと云うことはないのである。

 復興中の日本民族が今直ちに豊富華麗な生活を送ることが出来ないのは当然であり、これは「奪おうとする者は奪われる」と云う心の法則によって起こる過去の「他国から奪おうとした悪業」の自然に浄まる為の自壊過程として止むを得ないことであるけれども、今しばらくこの自浄過程をおえて、更に「与えよ、然らば与えられん」の心の法則に従って、今後日本民族が誠心を以って他国へ奉仕する生活を続けるならば、必ずや、日本民族にも豊富華麗な生活が来るに相違ないのである。

 与えれば与えられる。豊富に与えれば豊富に与えられる、ケチに与えればケチに与えられるのである。小出しにケチケチと出し惜しみをしながら出していたのでは、心がケチであるが故に、総計では沢山出していたにしても、その心がケチであるがゆえ豊富な供給に恵まれると云うことはないものである。何故なら、その人の心がケチであるからである。

 嘗ての某内閣が農家の供出米値段を一度に適当の点まで*引き上げることを為し得ず、小出しに引き上げて相当値段に達せしめていた時、一向その供出熱があふられなかったのはこの理由によるのである。形の分量よりも、先ず心のケチさが無くなることが必要なのである。
           
      (*玄米注 この「苦難と恐怖の克服法」は昭和33年4月1日に初版発行されたものです。)

つづく
       <平成28年6月10日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (1915)
日時:2016年06月11日 (土) 07時25分
名前:平賀玄米


   (五)

 或る時、私が「出せば出すほど豊富に与えられる」と教えたのに随って、無暗に相手かまわず、その投資が適当か否かを判断することもなしにルーズに金を出した結果、その投資は返って来ないし、ずるい人から瞞(だま)されてひどい目に遭ったと云う人があったが、凡そ富むためには「資本」を愛しなければならないのである。

 愛あるところに、愛される人々が喜んで集まって来るように、「資本」も同じく、資本を愛すれば資本が集まって来るのである。君が若し自分の子供を愛するならば 、その子供を出鱈目なところへ奉公に出すであろうか。愛児を託するためには、余程その託する相手を吟味して、この人ならば、自分の子供を充分教養し、偉大に生育させてくれるであろうと見込みのついた相手にのみ自分の子供を託するのである。

 無暗にその子供を堕落させるような相手には決して愛児を託しはしないのである。諸君が資本を愛するならば、資本を託する相手を吟味しなければならない。そしてこの人ならばきっと資本をよく育て保護し生長せしめ増大せしめてくれると思う相手に託しなければならないのである。

そして此処にも、「出せば出すほど殖える」と云う心の法則は当てはまるのである。何故なら諸君は、金は出したが、智慧を出したか。深切を出したか。その資本を愛するために凡ゆる手段と方法と智慧と愛との出し惜しみをしなかったであろうか。 これらの条件がすべて整うたとき、諸君に豊富華麗な供給が与えられるのである。そして「与えよ、さらば与えられん」のイエスの言葉の真実さが実証せられるのである。

つづく
       <平成28年6月11日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (1957)
日時:2016年06月12日 (日) 06時30分
名前:平賀玄米

 
「人の子は枕することなし」言ったイエスも、決して貧しいのではなかったのである。イエスは自ら進んで豊富華麗な生活を捨てたのは、必要以上のものを携帯するところに自己の心が集中し、人類の魂の救済の大願の方がおろそかになる恐れがあるからである。

 「汝の財宝(たから)のある所には、汝の心もあるべし。」(マタイ伝第六章二十一)と云う彼の言葉によってそれを知ることが出来るのである。彼は自ら進んで、浮世の面倒な財貨を携帯することを避けていたに過ぎないのであって、自ら進んで携帯しないのと、欲しいのに集まって来ないのとは、結果から見て形のr類似はあるかも知れないけれども、内容に於いて驚くべき相違があるのである。

 イエスは宇宙に号令して必要なものを必要な時に引寄せる力を持ってい給うたのである。
されば聖書は次の如く語るのである。

○その頃また大いなる群衆にて食うべきものなかりしかば、イエス弟子たちを集めて言い給う、「われこの群衆を憐れむ、既に三日、われと共におりて食うべき物なし。飢えしままにて、その家に帰らしめば、途(みち)にて疲れはてん。その中には遠くより来たれる者あり」

弟子たち答えて言う「この寂しき地にては何処(いずこ)よりパンを得て、この人々を飽かしむべき。」
イエス問い給う「パン幾個あるか。」答えて「七つ。」と言う。イエス群衆に銘じて地に座さしめ、七つのパンを取り、謝して之を裂き、弟子たちに与えて群衆の前におかしむ。

弟子たち乃ちその前に置く。また小さき魚少しばかり有り、祝して之をも、その前に置けと言い給う。人々食らい飽きて、裂きたる余りを拾いしに七つの籃(かご)に満ちたり。その人おおよそ四千人なりき。(マルコ伝八章一 ―― 九)

つづく
       <平成28年6月12日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2000)
日時:2016年06月13日 (月) 06時57分
名前:平賀玄米


      (六)

 イエスは七つのパンを四千人に分かちて、その余りがなお七つの籃に充ちたと云う。また別の章には五つのパンを五千人に分かちて、その余りが十二籃に充ち溢れたともあるのである。この驚くべき奇跡は一種の寓話に過ぎないと見る人もあるであろうが、これこそ實相無限供給の眞實譚なのである。

 吾々は講和条約の結果、周辺の領土を他国へ割譲して、そのためパンを得るための耕地は北海道、本州、四国、九州及び少許(すこしばかり)の島々となってしまったのである。原料が五つ分しかないのと同じことである。それにも拘らず、若し吾々がイエスと同じき信仰を有ち、真に供給は神より来たるものであることを信じ、イエスと同じき憐れみの心にて、手持ちの五つのパンでも分け与えたいと云う心になって、行動を開始するならば、そこから無尽蔵の供給が自然に恵まれ来ることになったのである。

 イエスは「われこの群衆を憫(あわれ)む。・・・・飢えしままにて、その家に帰らしめなば途にて疲れはてん。」と言っている。愛がそしてその実現のための行動のみが無限供給を招び寄せるところの魔術の秘法なのである。

つづく
       <平成28年6月13日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>  (2054)
日時:2016年06月14日 (火) 15時22分
名前:平賀玄米

 
    (七)

「富」とは物質ではない、「愛」の具象化したものなのである。神の愛が具象化した――それが物質であり、富である。されば富を実現するためには愛を実現することが必要なのである。富は愛を実現する為に使用せられたときにのみ自己本来の目的を遂げる、その富は満足するのである。

 そして多くの友人なる「富」を誘い来たり、富は愛の実現のために出せば出すほど、まるで外交員を派出するかのように、「富」が富の友人を伴い来たって益々その人の富は殖えることになるのである。

「人に与えよ、然らば汝らも与えられん。人は量(はか)りをよくし、押し入れ、揺り入れ、溢るるまでにして、汝らの懐中(ふところ)に入れん」と云うイエスの言葉が眞實となるのである。しかし富は愛の実現のために与えなければならない。相手を見極めず、愛のない親が自分の娘を身売りさせるように、ただ自分の富を投げ出すだけでは、富はその持ち主の冷淡さを憤って、再びその持ち主の所へは帰って来ないであろう。

 富は無駄に放出してはならないと同時にいつも金庫の中に押し込めておいてもならないのである。それは全く「富」にとっての禁固刑であるであろう。「富」は愛を実現するために、人々の懐中を循環して、人々の生活を潤しながら、人々を富ましめながら、自分も富の子供を生んでもと出て来たその懐かしい人々の許に帰って来ることを楽しみにしているのである。

 だから「富」は金庫の中へ封鎖したのでは決して増加しないのである。「富」はその愛を実現するために出て行かしめなければならない。これが富を愛する最も完全な方法なのである。

つづく
       <平成28年6月14日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>  (2077)
日時:2016年06月15日 (水) 16時39分
名前:平賀玄米

 
 最後に一つ。「何事も度を過ごすな」と云う箴言は「富」についても当てはまるのである。「富」は愛の実現のために外出せしめなければならないが、時々それを家の内に戻して休養せしめることが必要なのも、すべて人間の家族を常に外勤状態のみに置いては家族の懐かしさが無くなるのと同様であるのである。

 「富」を自分の家庭に引寄せようとおもうならば、「富」をしてその家庭を懐かしいと思わしめるように時々自己のうちに呼び戻して温存してやることが必要であるのである。多くの相場師が、そして事業家が「富」をして、一年間何十回転せしめて、見る見るうちに幾百万の金を作っていながら、最後の見込み違いでガラガラとその大富が崩れ落ちるのは「富」を家庭に温存して、しばらく何事ににも使わないで休養せしめることを知らないからである。

 「富」は「富」自身の増殖のためのみにコキ使ってはならいのである。「富」も時々は社会の事情に従って静かにしていたいときもあり、じっと様子を見ていたり、瞑想にふけっていたいこともあるのである。

 第二次世界戦争に参加して一時大いに儲けながら、最後に土崩瓦解して、元も子もなくなってしまったような戦時利得者は、あまりに「富」をコキ使って、「富」をして休養と静観との余裕を与えなかったために、ついに「富」に愛想をつかされた人が多いのである。

 尤も戦争で儲けた「富」はニセ物であるから自壊して姿を消すのは当然である。「富」は先刻も言った通り、神愛の具象化であるから、殺すことや、奪うことで、「富」(即ち神愛の具象化)が増殖する筈はないのである。終戦後諸方に起こったピストル強盗犯人などの「奪った富」がその後、如何になっているかと新聞を見つめていると、それは女郎や芸者を受け出したり、一夜の豪遊のために消費されて、無残にも跡形もなく煙の如く消えてしまっているのである。

「愛」と云う内容のない「富」は内容がないニセ物であるから忽ち亡霊の如く姿を消し去るのは当然であるのである。

つづく
       <平成28年6月15日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2095)
日時:2016年06月16日 (木) 17時44分
名前:平賀玄米


        (八)

「和尚、道を修するにあたって功を用うるや否や」
 こう言って源律師は慧海和尚に問うた。功とは工夫、精進努力すると云ういみである。道を修めるには工夫が要るか、精進努力が要るか。「道」とはそのままでないかと云うような意味である。
「功を用う」と慧海和尚は答えた。

「如何が功を用うる」と源律師は再び尋ねた。どういう工夫をなさると言うのじゃと云う程のいみである。
「飢え来たれば飯を喫し、困じ来たれば眠る」
慧海和尚の答えは淡々たるものである。腹が減れば食べるし、眠くなれば眠る。当り前が当たり前に出来るのが、本当の自由主義である。

自由主義などと「主義」の字は不要であるが時と場所とに相応な為に特に特に「主義」の語をつけのである。本当は「こうでなければならぬ」と云う主義に縛られるようなことでは本当の自由ではないのである。

「飢え来たれば飯を喫し」などと言っても、今では「飢え来たれば飯を喫することを得ざる者多数なり、如何?」と云うような問いを発する人が生ずるかも知れない。飢え来たるも飯を喫し得ざる者あるは、その人が本当の自由を獲得していないからである。

社会制度や社会政策によって万人が悉く、空腹になるとき食を得ることが出来るようにする事も必要であろう。然しながらどんな社会制度の下にも貧困者はあるのである。物資の無限に豊富な米国にも、共産主義社会のソ連邦にも貧窮者はあるのである。

如何なる制度の社会にも、自己の内なる無尽蔵の宝庫を開かない者は結局貧窮者であるか、社会の寄生虫であるかの外はないのである。

つづく
       <平成28年6月16日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2115)
日時:2016年06月17日 (金) 14時48分
名前:平賀玄米


自己の内なる無尽蔵の宝庫を開く眞の道が、いのちのそのままの発露に乗託して「小我」を用いないことである。自己の内なる無尽蔵の宝庫とは、即ち「大我」であり、「神」であり、「神」なる大宝庫を開く道が、「飢え来たれば則ち喫し、困じ来たれば則ち眠る」である。

そのまま功(工夫)を用いないのであり、しかも怠けているのではない。だから慧海和尚は「功を用う」と言ったのだが、これは私のはからいの巧智ではない、「無作の作」「無工夫の工夫」孔子の所謂「心の趣くところに随って、矩を越えず」の心境である。

「果報は寝て待て」と云う諺がる。これは常住寝ていて幸福が来ると云う意味ではない。「静」(Silence)の世界、「大寂」の世界(「神智」)の世界)に任せ切って、私のはからいなしに、神からはからわれて自然に、法爾に、そのままに動き出すとき、自然そのままに幸福が、無限供給が出現して来ると云う意味である。

人間の眞の富は「神の倉」(大寂)の中にある。その「大寂」の生命の大海に吾等は棲んでおり、その「大寂」の生命がわれ等の中に流れ入って、わが生命となっているのであるから、わが生命そのものの中に無尽蔵の供給があるのである。自己の内にある無尽蔵の供給を先ず自覚することが、供給無限の黄金律の第一である。

つづく
       <平成28年6月17日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2172)
日時:2016年06月19日 (日) 16時38分
名前:平賀玄米

 
      (九)

○失礼ですが一寸違います。君は僕がその時「殆んど無一物だった」と仰るが、正しいとは言えません。誰でもあらゆる物を有って出発する。すべてが吾がうちにあるんですからな。(自動車王ヘンリーフォードの言葉。ワルドー・トライン氏著“The power that wins”第十二〜十三頁)

これはアメリカの光明思想作家ワルドー・トライン氏がヘンリーフォードに二十五年前には殆んど無一物だった貴方が、これだけの事業を成就したのには驚嘆せずににはいられらませんでしたね」と言った言葉に対する初代フォードの答なのである。

これは戦争前の私の日本語訳『百事如意』第六十八頁に掲載されている言葉である。私はこの訳書によって米国光明思想を紹介し、アメリカを甘く見てはならないアメリカと手をつなぐべきだと警告したのだが、アメリカを甘く見る宣伝のみが行われ、「フォード」と云う米国人の名前さえ削れとの日本出版界の命令さえ来、私のこの訳書も戦争中出版不能の状態に立ち至ったのである。

「すべてが吾が内にある」と云う思想位自主的な民主的な、自己の本性を尊ぶ思想はないのである。
日本人は「すべてが吾が内にある」と云う事を知らなかった。そして他国に、他の領土に、侵入して奪わなければ日本の経済は有てないと考えたのである。

アメリカが殆んど無尽蔵の富を持ち、無尽蔵の軍需品生産力でついに日本を圧倒したのは、彼のただ物質抱負の力だと考えていたけれども、實にアメリカの勝利は、アメリカの精神の勝利なのである。アメリカの巨大なる生産力は、外形から見るならば物質的巨富であるけれども、その生み出す力は精神力なのである。

だからトライン氏はフォード翁に「僕が言おうとしたのは、貴方がこれだけの仕事をし、これだけ偉大な人類への貢献をするのに要るだけの巨富を集めたその力です」と言っているのである。巨富そのものをアメリカ人は重大視しているのではない、巨富を集めたその力――その精神的力――心霊的力をアメリカ人は重大視しているのである。

フォード翁曰く「富は仕事をする道具でその他の何でもない。富は炉に投げ込む燃料とか、機械を廻すベルトとか云う風なもので、目的に達する為の手段なんです」と。そしてそのベルトを廻し、燃料を燃やす力は精神力そのものなのである。

つづく

       <平成28年6月19日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2201)
日時:2016年06月20日 (月) 15時40分
名前:平賀玄米


その力だ。その力を見ないで富を外形からのみ見るからアメリカを単なる物質の国と見、真相を知らずして、アメリカに戦いを仕掛け、遂に惨めにも惨敗したのが日本の軍と政治家とであった。

フォード翁は言う、「その力がすべてですよ。一切の根元が其処にあるんです。吾々はただその力を認めるだけのことです。すべてのものの精髄と本質とが其処にあるのです。
吾々が霊と云い物質と云うものは一つですよ。霊と物質とは一つの全体です。僕は「霊」とか「物質」とか云って全然違う反対のものがあるように考えたくはないのです。この二つは全く一つなんです」と言っている。

富は外形から見れば物質であるから物質豊富のアメリカは「物質の国」に見えるけれども、富の内性を観るならばそれは精神力の具象化であるから、物質豊富のアメリカは精神力豊富のアメリカである。

このことを日本人は知らなかった。否、今でもそれを知らないものが多くて、此の惨めなる敗戦は、物質貧弱の結果としてただ物質豊富への追従を事とし、「日本精神」と自称したものが敗(やぶ)れたから、精神力などと云うものは物質力の前には何等価値なく崩壊するものだと云う誤れる思想が滔々として日本全土を侵しつつある現状である。

しかし日本人の大多数が日本精神と称しつつあったところのものは、実は人間を「物」の代用とする物質精神に他ならなかったのである。新しき日本を再建する為には彼らの所謂る日本精神(実は唯物精神)を打破し、眞のアメリカ的精神、ニューソート的精神に基き、日本人の生活の建て方を根本的に変革する必要があるのである。

つづく

       <平成28年6月20日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2225)
日時:2016年06月21日 (火) 14時03分
名前:平賀玄米


    (十)

「山、山に非ず、之を山と云う」とは金剛経に書かれている語(ことば)であるが、「物質、物質に非ず、これを物質と云う」(「霊と物質とは一つの全体です。僕は「霊」とか「物質」とか云って全然違う反対のものがあるように考えたくはないのです。」――フォード翁)

これがアメリカの光明思想(ニューソート)であり、キリストの説いた芥子種の信仰の精神である。
(「若し芥子種ほどの信仰ありて、この山に対(むか)いて動いて海に入れと言わば、必ず成らん」 ――キリスト)山は山に非ず、物質は物質に非ず、呼べば応えて動くのである。山さえ動くのであるから、食糧の増産や、生活必需品を動かすこと位は何でもないのである。

唯、彼らがそれを動かすことが出来ないのは、一つには、物質が単なる「死物的質料」なりと考えて、精神又は信念によって感応して動くものだと云う信念がないためであり、二つには物質の本質を成している精神(見える世界の背後にある所の生命)と如何にせば接触して相感応することが出来るかの方法をしらないからなのである。

この「見える世界の背後にある生命」―――宇宙の生命と、接触し感応する為には、先ずかかる
「宇宙生命」の存在を信じ、それと波長を合わせなければならないのである。宇宙霊は存在するものの一切を蔽い、一切を生み、一切を生かし、一切の存在を支えてい給う。それは決して一部の利益に奉仕しない。それだから「この力と接触する道は、最大多数の人間の最大多数の善を為そうと思って生活を正しくしなければならない。」とフォード翁は言っているのである。

これは単に一フォード翁の精神ではなく、アメリカ民主主義産業の精神であると思う。一民族、一国の利益の為に無数の殺人を厭わないような精神は、宇宙全体の幸福を念願し給う、宇宙霊(神)の愛の精神と波長が合わないのである。

日本人が如何に神社へ参拝して日本の戦勝を祈願しても結局効果がなかったのは、「神は非礼を受け給わず」そのような利己主義的祈りは神の愛の精神と波長が共鳴しなかったのである。迷信の神に、迷信的利益を願って祈ったとて何にもならない。日本の敗戦の結果、「神も仏もあるものか」と、自暴自棄に考えている人もあるようだが、かくの如き日本の敗戦によって却って、神は愛の精神のみに感応し、非愛の精神に感応し給わぬことがハッキリし、愈々神の實在が明瞭となるのである。

つづく

       <平成28年6月21日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2230)
日時:2016年06月22日 (水) 05時51分
名前:平賀玄米


ヘンリ―フォード翁に言わせれば、全宇宙は、生ける霊的元素体(Spiritual entity)の充満せる霊的大海原であり、一人一人の人間はその霊的大海原に浮かんでいる一個の霊的中心であるのである。即ち人間は、宇宙霊の自己顕現の中心者として、今此処に宇宙霊の全徳が顕現しようとしているところの霊的中心なのである。

フォード翁は曰う「目的の実現している様を心にハッキリと思い浮かべれば、心に浮かべた状態はその時から形を取り始めます」と。翁にとっては、否、眞理に於いては、物質的形態は精神観念の具象化なのである。この簡単な「心の法則」(The Law of Mind)さえ日本の過去の為政者も軍も知らなかった。

そして「海征かば水漬く屍、山征かば草生す屍」と日本軍の死屍累々たる有様を「言葉の力」にて歌い、それを精神観念に毎日思い浮かべることを以て所謂「忠義」と誤想したのである。アメリカの将兵の多くは基督教信者であり、聖書の詩篇第九十一篇にある「エホバはわが避けどころわが城・・・千人は汝の左に倒れ、万人は汝の右に倒る、されどその災害汝に近づくことなからん・・・」と云う強き必勝の信念を以って戦ったのである。必死を心に描く所謂日本精神と必生必勝を心に描くアメリカ精神との戦いは、アメリカの大勝に終わることは当然なのである。

吾々は度々これを警告したのであるけれども、良薬は口に苦く、諫言は耳に逆らい、我々への言論、出版への圧迫は愈々加わり、出版用紙の配給は絶無となった。用紙の配給が絶無となったのみならず、出版会社としての存続すら戦争中失権せしめられていたのである。

当時吾等の誌友八万、如何にその反対を心に描くとも、軍官の指導に従い、一億一心になって「必死、必敗、全艦水漬く屍、全隊草生す屍」を想念に念じているのが日本一億の心である以上、心にハッキリと思い浮かべる観念が形をとって具象化すると云う眞理(汝の信ずる如く汝にまでなれとイエス言い給いければ則ち癒えたり。―聖書)が実際である以上、日本の必敗は当然であったのである。

つづく

    <平成28年6月22日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法>  (2261)
日時:2016年06月23日 (木) 09時59分
名前:平賀玄米


何故、心に描くことが形に具象化し始めるのかと云えば、宇宙全体は、所謂「霊の大海」であり、生ける生命の波動が、恰もラジオの波のように充満しており、吾々一個の生命は各々大生命のラジオ波を受信して、それを可視的形態に具象化する一種の霊的テレビジョン装置であるからである。

ヘンリーフォードは宇宙を生命の霊的元素体の充満せる世界と観じその原理を次の如く説明している――「吾々が何を希望するにもせよ、それに心想を集中してその実現を念じ、その目的実現に向かって動き出せば、この生命の霊的元素体が集って来て吾々を助けて自分の希望するものを形に築き上げてくれるのです。正しい事、有益な事、をしつつある人は誰でもこの霊的元素体の助けを受けることが出来ます。

この生命の霊的元素体は外から遣って来て助けてもくれますが、内からも出て行くのです。―― 自分の想念を乗物として出掛けて行き、必要なものを有ってきてくれるのです。この霊体は、吾々の向上進歩を形づくる実質になるものです。この霊体の性質や分量は、各人の想念の型に従って決まるのです。

結局、各人の想念が形の世界に現れる。まことにも宇宙は唯一つの「霊の大海」であり、一波は万波に影響し、「内外一体、環境は我が心、我が心は我が環境」と云うことになるのである。波動と云うものは物質の波、心の波と区別して説くけれども、結局それは、唯一つの「識」の波動である。

この宇宙は「識」が動かなければ客観世界(名色(みょうしき))もなければ、主観世界(識)もない。結局宇宙は唯識の展開だと云うことになるのである。これは仏教の唯識的(唯心的)世界観であるが、基督教的又はニューソート的世界観及び生長の家式世界観に一致するのである。

生長の家では想念の波動が具象化して物質となるのだという。「物質」という一般の常識概念では、物質は有限であり与えれば自分の方は減るし、奪えば自分の方は殖えると考える。そのためにその唯物精神のある処、常に侵略戦争は始まるのである。

私は今にして頗る残念な感がするのであるが、日本の有識階級がもう少し外界は内界の投影であることを知り、奪う者は奪われ、与える者は与えられるの眞理を知り、すべては自分の心の通りが環境に現れるものだと云う事を知っていたならば、満州事変や、支那大陸戦や、太平洋戦争などを惹起さないで済んだものだと甚だ遺憾に思う。

つづく

       <平成28年6月23日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2311)
日時:2016年06月24日 (金) 10時24分
名前:平賀玄米


         (十一)

新しき日本を創造する為には今までとは全然異なる、新しき世界観と構想とを必要とするのである。
日本が敗戦したのを目して、精神主義の物質主義への敗退であると考え、日本を今後、唯物論化する必要があると考えている一部の論者があるけれども敗退したるところの日本精神は決して精神主義的なものでも心霊主義的なものでもなく、日本精神の仮面を被った唯物論そのものであったことは先ず最初に注目すべき事柄である。

戦前及び戦争中を通じて如何なる世界観が日本を支配しているかと云えば、それはその戦争動機に唯物論的経済理由が挙げられていたのでも明らかである。当時の政府及び軍部の力は「五つのパンを五千人に頒って尚籠に十二杯のパンが余った」と云うようなキリストの奇跡的な宗教的世界観は全然理解し得ないところの唯物論的な頭脳の持主によって指導されていたのである。

日本精神と仮に称ぶから如何にも精神主義のように見えるけれども、唯物論こそ彼らの所謂日本的世界観であり、指導精神であったのである。だから人口膨張を内に蔵し、新大陸への移民を拒絶せられたる日本民族は、満州へ又は南方へ進出する他に人口処理の方法はないと考えられたのである。

これは明らかに空間的広がりを唯物論的存在なりとする誤想より来たのである。彼らは空間を「心的存在」だと観ること能わず、それを唯物論的な地球上の一定容積であると考え、その一定容積中に際限なく膨張増加せんとする人口を容れようと考える場合、それは物理学上に不可能なることを可能ならしめんとするのであるから、将来入りきらない人口を容れる為の何処か空間を求めて其処へ侵出することが合理的だと考えられるのは、唯物的に世界を観じ、空間を心的存在と観ること能わざる日本主義者(実は唯物論者)にとっては当然の結論とならざるを得なかったのである。

つづく

       <平成28年6月24日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2336)
日時:2016年06月25日 (土) 07時11分
名前:平賀玄米


だから吾々(と彼らは称した)の時代に於いてこの人口と空間的容積との問題を解決して置かなかったならば、禍を子孫に残すものであるから、吾々自身の血を流しても吾々の時代に於いて子々孫の増加人口を修養出来る空間的容積を占めて置く事が、日本民族にとり、愛する子々孫々にとり必要な犠牲行動であると彼等好戦論者は考え且つ論じたのであった。

表面は如何にも立派やかではある。即ち「吾々自身の血を流しても、その犠牲に於いて・・・」――と表面は如何にも立派やかではあるが、彼等の子孫への愛は、如何に立派なように見えても、その愛が結局「唯物論的愛」であって、「子孫のために美田を贖うこと」――子孫に物質を与えることが「愛」であると考えたことに於いては唯物論を一歩も出るものではなかったのである。

彼らは子孫のために徳を積み、積善の家に余慶あらしめようと云うような、眞に精神的な「愛」は考えてみることだに出来なかったのである。だから彼らは当時のナチス独逸の領土拡張口実のブロック経済理論を取入れて、「有たざる民族が有ち過ぎるところへ侵出することは当然の道徳的行動である」と声明した。

唯物論者の彼等にとっては「有(も)つ」と云うことは「他より奪う」と云うことによってのみ可能なのであって、「有つ」ことの本源は神より許されて有つのであり、神より許されて有つ為には、先ず日本民族の行為が神の御意に一致することが必要であるとの、有神論者であったならば解り過ぎる程当然の事柄が解らなかったのである。すなわち「有たざる者」が「有つ者」になる為には、唯物論にとっては他より奪うより他に道はないと考えたのである。

かくて「奪うための戦争」は「有たざる者が有つ者になる為の理由」に於いて、民族の生存権の為の戦いであると云うイデオロギーによって勃発したのである。かかる奪う為の戦争は正しくない。
されば新日本再建の理念は「有たざる者が有つ者になる為」には、そして、「生存権」の為には奪い合いの戦いをしても好いとの道徳観・倫理観を徹底的に覆してしまわなければならないのである。

ヘンリーフォードや、ワルドートラインやマーデン等に顕れている米国的民主主義は、一切の物質的所有は心の豊かさの反映として神より来たる「霊の具象化」として説いているのである。
米国の日本への圧倒的勝利は、軍需生産の驚くべき莫大量に起因しているが、その根本はこれを生産せしめた精神主義又は心霊主義とも云うべき米国光明思想の日本唯物主義への勝利であったと言わなければならないのである。

つづく

       <平成28年6月25日 謹写> ありがとうございます 合掌。



尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2355)
日時:2016年06月26日 (日) 06時33分
名前:平賀玄米


       (十二)

唯物論を標榜する政党にして、一方農民愛、労働者愛を標識として掲げているものがあるが、「汝等互いに相愛せよ」のキリスト的「愛」は、唯物論ではその根本基礎が崩れてしまうのである。
「愛」とは精神的要素であり、ただ脳髄の物理化学的作用ではないのである。

若し唯物的化学作用が一切の精神作用であるならば、理論闘争と云うような論理の義しさ、愛というような道徳的正義と云うものは成立のしょうがないのである。「愛すると云う事は何故尊いか」
唯物論者は「愛とは脳髄の化学的作用であるが故に。」と答えるであろう。然らば「農民愛が足りないということは何故悪いか。」唯物論者は答えて曰く、「愛しないのも脳髄の化学的作用であるが故に。」

それではいづれも脳髄の化学的作用であるから、いづれを善とし、いづれを悪とする根拠がなくなり、共産党の人々がたとい如何に愛に深き人達であろうとも、その愛の価値の根拠がなくなってしまうのである。若し共産党の人たちが真に国民を愛し、「愛国」を主張し、そして「国民に愛されよう」と思うならば、共産党はその根本的世界観を唯物論からその対蹠的な世界観に転向しなければならないのである。

私は共産思想に反対するものではない。「一切の供給は神より来るものであって、個人の私有ではない」と云う原始基督教やニューソートやメンタルサイエンスや、生長の家の思想等は、一切の富を「神に於いて」共有であると見る点に於いて、一致するのである。併し吾々精神主義者は、それを外的拘束又は暴力によって平等に分けようとはしないのである。

神の財(たから)であるが故に神の摂理によって自然に神のまにまに計られて、心の姿に随ってその富が分配されるのが、眞の自由人の世界であるとするのである。外的拘束、強制力、暴力によって財を奪い又は強制分配する世界は眞の民主主義の世界ではない。戦争を勃発せしめた過去の日本的世界観はかかる外的暴力による富の再配分を是認する世界観であった。「この世は物質の塊より成り立つ世界であり、自己の属する民族(又は階級)がより豊かなる生活を送る為には他民族(又は他階級)より奪う為に戦うほかはない」と云う世界観であった。

吾々は万世に太平の基を開く新日本を建設する為には、かくの如き、富は有限の世界に於いて物質を奪い合うより道なきものなりとする唯物論的世界観を脱却しなければならないのである。

つづく

       <平成28年6月26日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2385)
日時:2016年06月27日 (月) 05時40分
名前:平賀玄米


国外にせよ国内にせよ、富の再分配を外的拘束力、強制力又は暴力によって為すことが正しいとする世界観は日本が満州事変以来大陸に南洋に暴力によって進出しようとしたところの戦争責任世界観より一歩も離脱していないのである。新しき日本はかくの如き世界観より脱却し、強制力、外的拘束力、又は暴力に依らずして眞に民主的に万民鼓腹の天国を地上に建設すべきであり、これを完成した時に於いてのみ日本は始めて、万世に太平の基を開き得たと称すべきである。

これは新生日本に課せられた使命であり、その使命を達成することによってのみ日本は敗戦の禍を転じて却って福となし、世界の平和に貢献したと称し得るのである。新しき日本、新しき世界の建設は、何よりもその世界観の基礎の据え替の上に構築しなければならないのである。

新日本の精神的基礎は唯物論の脱却、一切は「自心の展開」であるとして自己を反省し、自己を懺悔し、環境の荒廃を観て、自己の心の荒廃せる姿なりと観ずる新精神主義の上に建つべきである。
吾等はこの基礎の上に建って、新しき意欲と新しき理想をもって心を練り環境を創り直すべく勇往邁進する勇気と精進とを続くべきである。

それにはどうしても三界唯心的、ニューソート的、ヘンリーフォード的世界観「吾々が何を希望するにもせよ、それに心想を集中してその実現を念じ、その目的実現に向かって動き出せば、この生命の霊的元素体が集まって来て吾々を助けて自分の希望するものを形に築き上げてくれるのです」と言いしフォード翁の如き世界観、誰からも奪うものではない、自分の念の力で霊的元素体を吸引して、富を具象化すると云う世界観を把持し、その理想実現に邁進すべきである。。

勇気と精進と念の集中とは、意志の努力によってのみ初めて可能なのであるが、この時にも唯物論は努力精進の躓きとなる。何事も唯物論的化学作用の自然の発露であるとして、脳髄に意志と努力との化学作用が自動的に起こって来るまではどうすることも仕方がないと、手を拱いているようなことでは新日本の建設は出来ないのである。

日本産業界のスローモーションと頽廃的怠業状態は精神的理想を失った唯物論的労使双方の利益万能主義から来ているのである。「物」のほかに何も見ない唯物論者は利益があったら働くが、生命のハタラキの悦びや、隣人愛の悦びの為には働こうとはしないのである。この点日本民族は労務階級のみならず、資本家階級おしなべて唯物論者が多いのである。

共産党員と雖も、口には「唯物論」を称えているが、「愛」を高唱していたり、幾十年間節を曲げざる心の徳を誇りとしている点に於いては、決して唯物論者ではないのである。彼等は自覚せざる精神主義者であるのであって、彼らが唯物論より脱却してハッキリ自身の精神主義を自覚し、基督教的共産思想になったとき彼らの同志は全国の基督教者を網羅し得るかも知れない。

以上、私は精神主義万能の世界観だと思われていた、旧来の日本的世界観を検討して、それが決して精神主義でもなければ、有神論にも非ざる事を明らかにしたのである。そしてそれが精神主義に非ざる故に、また神の愛を信ぜざるが故に他より奪うの戦争を勃発せしめたことを明らかにしたのである。

つづく

       <平成28年6月27日 謹写> ありがとうございます 合掌。





尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2406)
日時:2016年06月28日 (火) 07時12分
名前:平賀玄米


日本の敗退の原因もまた唯物論なるが故に、また眞の神を信ぜざるが故に敗退したのであることをここに更に明らかにしておきたいと思う。日本の所謂る軍官の首脳部たちは或は「国民精神総動員」と称し、或は「一億一心」と称したのであるけれども、それはただ掛け声のみであり、彼等自身は唯物論者であり、眞に精神の何たるかを理解したるものでなかったのである。

その証拠に吾等がアメリカのニューソートや、クリスチャンサイエンス等を紹介して精神の力によって肉体の病気の治る実例を無数に示し、無数の実証的礼状を示しても、精神で肉体の病気が治るなどのことは迷信であるとして、有形無形に凡ゆる圧迫を加えて、ついに『生命の實相』の発行を禁止してしまったのである。

精神で肉体の病気が治る位の容易なる出来事さえもあり得ないと信ずる当時の政府当局が精神総動員などといっても、「無力」に過ぎないと信ずる精神の総動員であるから、結局何の効果も挙げ得なかったのは当然のことである。

また彼等は「日本神国」と自称すれども、彼等の「神国」という概念は、国際的に万国に通用する意味での「神」の国ではないのであって、「日本の神様と外国の神様とは異なる。日本の神様は全知全能の絶対神と云うような意味ではない。カミというのは上と云う意味である」と云うような、封建的上位階級のことを上と言った。

そして日本の神とは無限の力を持つような絶対神でない」ことを証明する為に「古事記」にある天津神が太麻邇(ふとまに)(一種の占い)をして天意を占う條(くだり)や、平田篤胤の『古道大意』にあるところの、「さて御国の言葉に凡てカミと申すは・・・尊きこと、善いこと、功しきことなどの殊(すぐ)れたるばかりをいうのではなく、悪しきもの、奇しきものなども世に殊(すぐ)れて畏きをば神と申すでござる・・・天狗、狐などの類も殊れて奇しき畏きもの故、これも神でござる」などと云う言葉が引用されたりした。

だから「神の国」と彼等日本人は自国を称したけれども、それは「封建的上位階級」「強い者の支配する国」と云う意味であって、決して全知全能の神が守護していて下さる国だなどと信じたのではなかったのである。そして神を基督教的に絶対者として説く吾々は純粋の日本思想ではないとして排撃されたのである。

従って、当時彼らが「日本神国」と称すれば、如何にも他から察せば宗教立国の国のように聴こえたかも知れぬけれども、実は無神論も無神論、ただ特殊上位階級を指してカミと称した偶像崇拝教がその大部分を占めていたのである。

彼等は世界に通用せぬ「神」を信ずることを以って「日本は特別だ」と滑稽にも誇称していたのである。このようなことで到底、真の宗教を持ち、眞の「神」を信ずるアメリカ軍の信念の力に立向かう事が出来る筈がなかったのである。

つづく

       <平成28年6月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2453)
日時:2016年06月29日 (水) 07時04分
名前:平賀玄米


私はアメリカの精神主義の書物を沢山読んでみたが、彼等は眞に全能の神を信じているのであり、実生活を護り給う神を信じていることを堂々と著書に書いているのであり、そういう信念で戦ったのである。だから、滑稽なことには民主主義国と称されている米国が却って神に護られている国であり、日本は「日本神国」と自称しながら神護などを信じている日本人は極一部の者のみであって、表面はいざ知らず彼等の潜在意識は唯敗戦のみを信じていたのであった。

さればその出陣鼓吹の歌であったところの「海征かば水漬く屍、山征かば草生す屍・・・」が示している通り、愛国とは海に戦えば必ず藻屑となり山に戦えば必ず斃れてみずから堆肥となる事だと思うほかはなかったのである。どうして神護を信ずる人ならば戦えば必ず海の藻屑となると云うような歌を平気で歌えようぞ。

若し神護を信じながらも海の藻屑になるのが当然だと思えるならば、彼等はただ戦争に気がのぼせて精神の合理性を失っていたと云う他はないのである。当時の日本人の大部分には、全能の神の信仰もなく、唯偶像崇拝であったから、イザ正念場の戦いになると自信が有てない。自然来るべき運命と信ずるところの敗戦の観念を暴露した「水漬く屍」の歌を唱うより仕方がなかったものである。

ヘンリーフォードの言う通り、「思念を集中すれば、其処に霊智的小生命体を引き寄せる中心磁力を生じます。例えばある事業に思念を集中するならば、その思念の磁力にてその事業を成就するに必要な凡ゆる要素が集まって来るのです。志すものを大いに絶えず強く思えばその事物は引寄せられて来るのです。吾々が諸種の事業をやりかけて見て成功しないのは、その志すものを絶えず強く熱意を以って思わないからです。

志す事業を招び寄せるのには、その思いを中断せずに、気永くその希望と熱意とを持続しなければならない。短気ですぐ失望するようでは駄目です。その事業が成就するのに適当な条件を引寄せるには或は三、四ケ月掛かることもあるし、時には六ケ月掛かることもあります。兎も角、思念を長期間持続的に集中することは、必要な事物を引寄せる磁力となるものです。」
                                        (戦前邦訳『百事如意』九十七頁)

つづく

       <平成28年6月29日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2481)
日時:2016年06月30日 (木) 07時01分
名前:平賀玄米


まことにもフォード翁の語(ことば)のように、「絶えず強く思えばその事物は引寄せられて来る」のである。フォード翁は「志すものを絶えず強く思う」と言っているけれども志さないものでも「絶えず強く思えば」それは心の世界に先ず形成せられ、その反影として形の世界に形成せられたのである。

この事は病気などは恐らく「志すもの」ではないけれども、病気を「絶えず強く思えば」病気が生じて来るので実証せられるのである。多くの慢性病者は、病気を恐れるがために、却って心に「病気を絶えず強く思い」病気を心に形成いるから、病気が常に絶えないのである。

私は多くの慢性病者に病気を忘れるように指導し、心に病気を思わないように教え、心の世界から病気を放逐してしまって、彼らが病気を心に思わなくなった時、彼らの慢性病が癒えてしまっていた幾多の体験例を知っているのである。


日本の将兵は絶えず、自国の軍隊が敗戦して「海の藻屑」になり、「草生す屍」になっている歌を歌ってその事実を「大いに、絶えず強く思い」て、愚かにもそれを忠君愛国だと思い、満州三千万の住民に対しては、正午の号笛直前に「海ゆかば水漬く屍となって敗けまする」と云う意味の例の歌をラジオで放送し、そのラジオの奏楽につれて三千万人同時一斉に、この歌を思念するように強制したのである。

一人の思念の力すらも力があるとするならば、三千万人の同時思念は、前掲フォード翁の言のように、「その思念の磁力によってその事業(此処では「水漬く屍」「草生す屍」)の成就するに必要な
凡ゆる要素が集まって来る」ことは当然である。即ち「水漬く屍」の歌の内容の通りに、日本海軍は敗退し、ソロモン沖に、フィリピン沖に、沖縄沖に、惨敗を満喫し、やがて日本陸軍も補給の途絶えて、思念の通りに「草生す屍」になったのである。

心の力、想念の力、言葉の力を知らざる徹底唯物論者はかくして大敗したのであるが、彼等は徹底唯物主義を指して自ら「日本精神」と自称していたから、「精神なんて何の役にも立たないではないか」と逆に唯物論跋扈の反動をつくりつつある現下の情勢であるが、よくよく考えて見れば開戦を惹起した思想も空間有限の唯物論であり、敗戦の責任者たる思想も唯物論なのである。

だからこの敗戦日本を建て直す道は三界唯心式ニューソート式精神主義である他はないのであり、生長の家の今後の使命もかかる精神主義の宣布鼓吹にあるのである。

つづく

       <平成28年6月30日 謹写> ありがとうございます 合掌。



ありがとうございます (2489)
日時:2016年06月30日 (木) 10時50分
名前:愛

唯物論を標榜する政党にして、一方農民愛、労働者愛を標識として掲げているものがあるが、「汝等互いに相愛せよ」のキリスト的「愛」は、唯物論ではその根本基礎が崩れてしまうのである。
「愛」とは精神的要素であり、ただ脳髄の物理化学的作用ではないのである。

若し唯物的化学作用が一切の精神作用であるならば、理論闘争と云うような論理の義しさ、愛というような道徳的正義と云うものは成立のしょうがないのである。「愛すると云う事は何故尊いか」
唯物論者は「愛とは脳髄の化学的作用であるが故に。」と答えるであろう。然らば「農民愛が足りないということは何故悪いか。」唯物論者は答えて曰く、「愛しないのも脳髄の化学的作用であるが故に。」

それではいづれも脳髄の化学的作用であるから、いづれを善とし、いづれを悪とする根拠がなくなり、共産党の人々がたとい如何に愛に深き人達であろうとも、その愛の価値の根拠がなくなってしまうのである。若し共産党の人たちが真に国民を愛し、「愛国」を主張し、そして「国民に愛されよう」と思うならば、共産党はその根本的世界観を唯物論からその対蹠的な世界観に転向しなければならないのである。

私は共産思想に反対するものではない。「一切の供給は神より来るものであって、個人の私有ではない」と云う原始基督教やニューソートやメンタルサイエンスや、生長の家の思想等は、一切の富を「神に於いて」共有であると見る点に於いて、一致するのである。併し吾々精神主義者は、それを外的拘束又は暴力によって平等に分けようとはしないのである。

神の財(たから)であるが故に神の摂理によって自然に神のまにまに計られて、心の姿に随ってその富が分配されるのが、眞の自由人の世界であるとするのである。外的拘束、強制力、暴力によって財を奪い又は強制分配する世界は眞の民主主義の世界ではない。戦争を勃発せしめた過去の日本的世界観はかかる外的暴力による富の再配分を是認する世界観であった。「この世は物質の塊より成り立つ世界であり、自己の属する民族(又は階級)がより豊かなる生活を送る為には他民族(又は他階級)より奪う為に戦うほかはない」と云う世界観であった。

吾々は万世に太平の基を開く新日本を建設する為には、かくの如き、富は有限の世界に於いて物質を奪い合うより道なきものなりとする唯物論的世界観を脱却しなければならないのである。

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2504)
日時:2016年07月01日 (金) 11時51分
名前:平賀玄米

 
      (十三)

精神分析学者フロイドの本の中に『日常生活の異常心理』というのがある。その中に毎朝牛乳を沸かす時にガスの火加減の調節をどんなに丁寧にやっても、火が強過ぎて牛乳が沸騰してこぼれてしまう夫人の話がある。どういう訳でこんなことになってしまうのかと思っていると、或る日その夫人の愛犬が死んでしまったのである。

その翌朝から牛乳は決して噴きこぼれなくなったと云うのである。牛乳の噴きこぼれる事と愛犬の死との間に如何なる関係があるかと云うのである。諸君、先ず如何なる関係があるかその謎を解くべくしばらく考えて見てから次の解答を読まれたい。

如何に上手にガスの火加減を調節しようと試みても、その調節に失敗するのは、如何に上手に事業を経営しょうと思っても、その事業経営に失敗するのと相似の問題である。現在意識は「失敗しないこと」を念願する。しかも潜在意識は失敗する事を念願している。

それは恰も太平洋戦争に於いて日本軍が現在意識に於いて「失敗しないこと」を望んでいたが、潜在意識の底では「敗戦の姿」(味方が水漬く屍となり草生す屍となる有様)を想念し、それをワザワザ歌詞に唄い、ラジオの伴奏によって全国民揃って思念黙想せしめていたのと同じことである。

潜在意識の引きずって行く力は現在意識の希望を容赦なく粉砕し、踏み躙り、その潜在意識の底に描かれた想念を形の世界に具象化すべく、グングン色々の条件を整えて行くのである。現在意識が「失敗しないこと」を希望しているなどと云うことは、潜在意識のこの引摺って行く力に比べては物の数にも当たらないのである。

ではその夫人は何故にガスの火加減の調節を過って、牛乳の噴きこぼれるのを現在意識では止めようと思いながら出来なかったのであるか。フロイド博士の分析したところによればこうである。
夫人は飼い犬を深く愛していたのである。牛乳の噴きこぼれる度毎に、その愛犬が来て床の上にこぼれている牛乳を美味しそうに舐めるのである。

潜在意識は愛犬がその牛乳を舐める事を悦んでいるのであるが、現在意識は牛乳がこぼれるのは勿体ないから、何とかガスの火加減を調節しようと思う。しかし現在意識よりも潜在意識は強力である。現在意識の希望を圧倒していつまでも執拗にガスの調節を誤らしめるのであった。ところが或る日突然その愛犬が死んだ。潜在意識はもうその愛犬に牛乳を舐めさせる必要を感じなくなり、牛乳の噴きこぼさせる必要がなくなったので、ガスの火加減の調節を誤らしめることを止めた。それ以来覿面に牛乳は噴きこぼれなくなったのである。

これはガスの火加減のみではない、事業の成功の上にも、潜在意識が、富の蓄積や事業の成功を拒むような気持を持っている限りに於いて、現在意識が刻苦勉励一所懸命、致富の為に、また事業成功の為に孜々として努めても、すること為すこと不成功になるように導かれるのである。ではどういう場合に潜在意識が致富を拒絶し、事業の成功を妨害するのであろうか。

つづく

       <平成28年7月1日 謹写> ありがとうございます 合掌。

尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> (2524)
日時:2016年07月02日 (土) 06時38分
名前:平賀玄米


(一)は、その人があまり純潔すぎて「富と神とに兼ね仕えること能わず、吾は神に悦ばれんが為に貧しからんことを欲す」と云うような清貧礼賛の気持ちでいるときである。

(二)は、その仕事の動機又は目的が正しくない為に潜在意識がその事業の成就を好まない為に、凡ゆる手段を尽くして見るけれども、その採る手段は却って目的の成就の正反対の方へ潜在意識によって導かれるのである。
(この場合は、かの太平洋戦争に於いても当てはまる。)日本の戦争目的が純粋に正しくなかったために、もっと有利に、講和する機会があったけれども、潜在意識は日本にとっての好機会を掴ませなかったのである。

この潜在意識の導きは、広義に於ける「神の導き」に一致しているのである。ヘンリーフォードは事業を成功へ導く力と接触する道について次の如く言っている。「この力と接触する道は、最大多数の人間に最大多数の善を為そうと思って自己の生活を正しくすることです。」

正しい生活を為さなければ「神に繋がる潜在意識」の祝福を受ける訳には行かない。だから吾々は潜在意識の喜ぶことをしなければならぬのである。悪銭身につかず、盗んだ金や、盗んだ金や奪った財は直ちに蕩尽されて元の木阿弥になってしまうのである。諸君はそういう例を沢山知っている筈である。

奪った国土も資源も永続きするものではないことを、諸君はかの太平洋戦争に於ける日本大敗によって経験済みなのである。日本が敗けたから神も仏もあるものかと自暴自棄になっている人もあるが、日本が敗けたからこそ正しき神の審判がましますことが明瞭となったのである。

成功と勝利の唯一の味方は「正しい生活」と云うことである。
宇宙に満つる渾てにして一つなる超在意識、これは「神の意識」であり、宇宙に遍満する意識であるのであるが、吾々個人個人の潜在意識は此の超在意識が吾々に流れ入って個性化したものである。
吾々は潜在意識を誤魔化して悪を押し通して事業の成功を為そうとしてはならないのである。

仏教にも「道心に衣食あり」の諺がある。生活が正しくて道にかなえば生活に必要なものはすべて与えられるのである。良心に背いた事をしてはならない。一時は成功したように見えようとも、それは永遠の成功ではない。

太平洋戦争の敗退は神が吾等にこの眞理を知らせんが為の啓示であることも出来るので、それにも拘わらず、この敗退を神なきものとして、生活を「闇商売」に持ち崩す如きは、更に次なる潜在意識の審判を受けて、日本民族全体の由々しき不幸を持ち来すことになるのである。

つづく

       <平成28年7月2日 謹写> ありがとうございます 合掌。


尊師・谷口雅春先生・谷口清超先生共著<苦難と恐怖の克服法> 人間救いの原理@  (2584)
日時:2016年07月03日 (日) 20時48分
名前:平賀玄米


キリスト教が教えたところの眞理を総括するならばこうである。「神の生活が人間の子の生活である。汝の生活について思い煩うな。神の生命が自己の生命であり、神の生活が自己の生活であると
云う事を内に自覚したとき、そして、神の子としての生活を正しく生きるとき、外の世界に於けるすべての事物はそれに伴うて実現するのである。

だから先ず神の国の義(ただ)しきを求めよ。その余のものは汝等に自ずから附け加えられるのだ。野の百合を見よ、私の計らいで狡智猾智(こうちかっち)の計らいで生活しないでもソロモン王の栄華よりも美しい装いをつけさせているではないか。

これが神の愛なのである。汝等は空の鳥よりも野の百合よりも尚一層優れたる者ではないか。
人間は万物の霊長として神の全徳の世嗣(よつぎ)ではないか。だから人間を貧しくあらしめるということは神の意志ではないのだ。汝等は地の宝を求め、人間智で悪を行うから却って貧しくなるのだ。

天の倉にある無尽蔵の宝庫を開け。ソロモンの栄華よりも尚美しき装いの百合の花よりも尚々美しき生活を送らしめたいという事が神の願いなのだ」と。諸君はこのイエスの福音を信ぜよ。強いて
清貧を求むるな。又強いて人間的な計らいを以って富むべく求るな。

今、今、此処、此の一刻、一刻を神の正しき生活を送り給え。その余のものは諸君に自ずから附け加えられるのである。然らばその「正しき生活」とはヘンリーフォードはこう言っている ――
「僕が自己の生活を正しくすると云うのは、最大多数の人間に最大多数の善を為そうと心掛けることなんです」――これが光明思想に於ける「供給無限の黄金律」なのである。

第一章 致富繁栄の黄金律は今回にて完 次回から第二章 運命が修正せられる原理です。       

<平成28年7月3日 謹写> ありがとうございます 合掌。




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