尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十八章「わが魂の願いと祈り」 (296) |
- 日時:2016年01月28日 (木) 07時06分
名前:平賀玄米
<性格に適する願い>
第一に、それは自分の性格に適する心の願いでなければならないことであります。 富を求める場合には、「私の天分にかないまする出来るだけ多勢の人のためになるよき考えを与え給え」と祈らなければならないと、私は『祈りの科学』の中で教えて置いたのであります。
吾々の祈りが「神の願い」即ち神が自分に植えつけた所の願いであるためには、それが「天分にかなう」ところの薔薇の木が薔薇の花を咲かせるような願いでなければならないことであります。 薔薇の木が藤の花を咲かせたいというような願いは、いくら切実に願ってみてもきかれないのであります。それはそのものの「根本要求」ではないからであります。
多くの祈りがきかれないで終わるのは、かかる「根本要求」でないものを求めていたからであります。だから先ず自分の願いが自分にとっての根本要求であるかどうかということをテストしてみる必要があるのであります。如何にしてテストするかと云ってもそれは自己反省による外はないのであります。
或は又「吾が為すは神が成さしめ給うのである」と信じて実行してみて、実際に成功しない場合には、自分にとって適しない願いであったと云うことがわかるのであります。 神は、その求めが適当でなかったら、その代償として適当なものと取り換えて下さるのであります。
その次には「出来るだけ多勢の人の為になる良き考えを与え給え」と祈るべしと云う教えの中に 「わが願い」は「神の願い」であるかどうかのテストの条件が含まれているのであります。
出来るだけ多勢の人の為になる即ち人類相互の幸福の為にならんが為の願いであるかどうかが、わが願いが神の願いであるかどうかが、わが願いが神の願いであるかどうかのテストの条件になるのであります。この二つの条件が整うところの願いは、神の願いに一致するものと大体定めてよいのであります。
<早熟なる願い>
然しながら吾々の願いの中にはまだまだ色々の不純物や未熟なるものが混じっているのであります。たとい薔薇の木が薔薇の花を咲かせたいという願いが純粋でありましても、それがまだ早熟な願いであって、蕾も整わない中に立派な花を咲かせたいというような願いはそれはまだ早熟なる願いであって神様の御心に叶わない願いなのであります。 だからここにも「神よ御心ならばこの願いを成就せしめ給え」と祈る必要があるのであります。
つづく
<平成28年1月28日 謹写> ありがとうございます 合掌。
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