講師になったら 『甘露の法雨』 講義をしなさい (621) |
- 日時:2016年03月03日 (木) 08時50分
名前:童子
http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32
生長の家山口教区講師会長 大 楽 英 夫
私がみ教えを戴いたのは、16歳の時である。 誰に勧められたわけでもなく、生長の家の講演会をポスターを見て、初めて集会に行った。 そこに父がいた。 父も生長の家の話を聴きに来ていたのである。 それは現在もなお、私がずーっとお世話になっている相愛会の発会式の記念講演会であった。 眼に見えない手に導かれて、発会の当初から、私は参列する事が出来たのである。
それから2.3日してから、仏壇に聖経 『甘露の法雨』 が置かれていた。 今まで、見た事も聞いた事もない、聖経 『甘露の法雨』 の題字を見ながら、私は限りない懐かしさをおぼえた。 しかし、私はそれを手に執って見ることをしようとしなかった。 この尊いお経を、私如き、罪汚れの多いものが、手に執っては、畏れ多いと思ったからである。 中味を全然知らないのに、何故そう思ったのか、誠に不思議な事である。
さらに2,3日すると、また仏壇に 『生命の實相』 が置かれていた。 見ると、『甘露の法雨』 の講義の所 〈頭注版 第21巻〉 であった。 「神」 の項で、尊師が、釈迦は創造主としての神を否定し、生長の家は現象を否定したという真理を説かれた所は、今でもまざまざと魂に刻みつけられている。 宗教的真理の深さが、私に判るはずもなかったが、何という、すごいお方であろうかと驚いたものである。 爾来、私は一所懸命 『生命の實相』 を拝読した。
23歳の時、現在の宇治別格本山で林間講習会が開かれた。 まだ、建物は何もなく、屋根のない松林の中で、詳密講習会が開かれたのである。 キリストの山上の垂訓を偲ばせるような、場面であった。 その講習会で、私は地方講師を受験した。 またしても、誰も勧める者はなかったが、連合会長と、教化主任の了承を得て、受験した。 東山半之助講師が、「大楽頑張れよ!」 と言って、背中を叩いて下さったのは、懐しい思い出である。 5ヵ月後に、生長の家地方講師補の辞令を戴いた。
早速、伝道を始めた。 1ヶ月間、毎晩地元で、聖経 『甘露の法雨』 の講義をした。 東山半之助講師が、「講師になったら、実力をつける為に、甘露の法雨の講義をしなさい」 と言われたのを思い出して、実行したのである。
『生命の實相』 の “甘露の法雨講義” は繰返し拝読した。 いよいよ講義を始めようとして、ノートに 『甘露の法雨』 を写経した。 最初の2,3行を写した時、何という、尊いお経であろうか。 何という、崇高なリズムであろうか。 この偉大な聖経の前に、私は呆然として、なす事を知らなかった。 しかし、若いというものは有難いもので、やがて、猛然として、勇を鼓して、聖経 『甘露の法雨』 の講義に取組んだのである。
講義に取組んだといっても、もっぱら尊師の御講義の拝読である。 それでも、70数歳のおばあちゃんから、10代の人まで、年齢層は広く、毎晩数名の方達が集まって下さった。 最初に聖経 『甘露の法雨』 を一斉読誦し、それから講義、次に神想観実修、笑いの練習、最後に座談である。 新米の若い講師補にしては、随分むつかしい質問も出た。
「現象なし、と言われますが、現象なしと悟った自分は、どうなるのでしょうか」
「尊師は “現象なしと悟った自分もなしと悟って無くなるのである。 すると、現象もなくなって、360度転回して、有るものは、全て神の生命、仏の生命。 今此処に生きている生命も、神の生命として礼拝出来るのです” とお教えになっています」 と、お伝えした。
70数歳のおばあちゃんは、ご熱心に来ておられて、生れてこの方、‘ひたい’にあった長さ2センチ位の黒子がなくなった体験を話された。
1ヶ月間の 『甘露の法雨』 講義を終えて、しばらくした時、目が覚めて見ると私は、顔面神経麻痺にかかっていた。 有難い事に、現象なし、実相完全円満のみ教えを戴いた私は、うろたえ騒ぐ事は無かった。 仏前で聖経 『甘露の法雨』 を拝誦し、又、神想観を実修して、実相を観じた。 やがて、頬がぴくりと動いた。 ほんの一寸、針の先程動いた。 それでもとても嬉しかった。 当り前の有難さをひしひしと感じた。
夏が来て、また、宇治で詳密講習会が開催された。 受講しようとして、汽車に乗るべく徳山駅頭に立った私は、全身に生長の家大神の御生命が馳け巡る歓喜を感じた。 2年目の宇治は、木造の建物が一つ建っていた。 全国から集まった幹部達が、ぎっしりと詰めて、汗だくになりながら、尊師の御講義を受けた。 尊師のご下問に対して、答える事の出来なかった私共は、その不勉強さに、大目玉を喰らった。 魂の目が覚めた瞬間である。
汗だくの会場の中で、尊師は神想観をして下さった。 みんな一つになる神想観をしましょうと、尊師、輝子先生、清超先生と手をつながれ、そして清超先生は信徒と手をつながれて、尊師を通じて、神の生命が流れ、みんな一つになる神想観をして下さったのである。
宇治から帰った時、私の顔面神経麻痺は無くなっていた。 尊師の癒しの聖霊をうけたのである。 み教えを戴きながら、浄まる事のなかった私は、身心霊ともに浄まりて、つつが無くみ教えを伝えよと、神の癒しの聖霊をうけたのである。
『生長の家』誌 昭和63年8月号 より 、
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