唐突だが久し振りに本音で本域の長文「社説」を3部に分けて書いてみる。
「そんなの読む気分じゃねえ」という読者諸兄は、本日は無視しておいて
気が向いたときにでも読んで頂ければ幸い。。。
数ヶ月前、変な悪夢を見た。
私は普段、飲酒運転など勿論しないのだが、何を思ってか、その夢の中では
私は飲酒運転をしてしまう。しかも、そんなときに限って、道路という道路で
飲酒検問をやっている。どこに迂回しても逃げられなくて冷や汗を書く悪夢。
まぁこれは、過去に理不尽な違反でパトカーに止められたトラウマだとか、
最近、例の豊田市の殺人事件で検問がやたら多いストレスだとかで見た悪夢
だろうが、そういうトラウマやストレスがあるだけに、実に嫌な夢だった。
ストレス社会、心の病、息苦しい社会、etc、そんな言葉は
20世紀から(もしかしたらもっと前から!?)あったと思うが、
21世紀、ここ10年のそれは、質的にも異質で、量的にも悪化しているように見える。
質的には、80年代、90年代と比べ、00年代とは
「不寛容化、厳罰化の10年」
だったと私は断じる。
「不寛容化、厳罰化」と言っても、今、私が考えている話は、
凶悪犯に対する司法の話ではなく、今回は一般市民の素肌感覚の話である。
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飲酒運転罰則強化(2007年)、駐車監視員制度(2006年)、裁判員制度(2009年)、
モンスターピアレント問題、嫌煙運動、メタボという言葉の流行、
児童ポルノ規制法強化、etc…、
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上記に羅列した一見次元の異なる項目には共通項があり、それは
一見逆説的に見えるかも知れないが、本質は「不寛容化、厳罰化」だと。
冒頭に私は飲酒運転などしないと書いたが、厳密に言えば
90年代、ビールをグラス一杯から中ジョッキ一杯なら
飲んで運転した経験も無いわけではない。
よく言われていた話では、仮に検問を受けたとしても、その量では
呼気中アルコール濃度も問題ないと聞いていたし、自分自身も十分睡眠をとった
万全の体調であれば、その量で酩酊状態にはならないとも分かっていたから。
しかし、今は最早学生でも無いし、現状の罰則ではとても割りに合わないリスクを
伴う。この量だろうが怖くて口に出来たものでは無い。
私の例に限らず、90年代以前は車で夕食に出かけても、少々ビールを嗜んでしまう
市民は、良くないことかも知れないが散見された。
しかし今日、法改正が見事に奏功したかの如く、少々のビールであっても
運転時に口にする者は、一般市民レベルでは実に見られなくなった。
では、そもそも何故社会を変容させるまでに飲酒運転の罰則が強化されたのか。
それは皆さんもご存知の通り、飲酒運転による悲惨な事故を撲滅するためであった。
確かに、これは飲酒事故に限った話では無く、どんな事故であってもそうであろうが、
何の落ち度も無い市民が唐突に命を奪われてしまうこと、被害者の周りの人間の人生が
突然暗転してしまうこと、これは経験の無い私には想像出来ないほど深刻な悲劇である。
このような被害者には可能な限り手厚い保障がされる社会であるべきだと私も願うし、
そういう経験のある人々が事故原因の根絶を願うことも十分に理解出来る。
しかしここで、敢えて批判を恐れず提起したい。
私は、被害者救済の制度を実現可能な範囲で強化することに対しては一点の反論も無い。
しかし被害者の意向を汲む形とは言え、社会全体を巻き込んで厳罰化することは
どうであろうか。「被害者」という存在は「飲酒運転」に対してのみ存在するわけでは
無く、通り魔が原因で大切な人を失ったご遺族は「通り魔」の被害者、詐欺が原因で
大切な人を失ったご遺族は「詐欺」の被害者と、当然収集がつかない。飲酒の問題には
「逃げ得」問題で批判されることが多いが、私はそういう整合性上の欠陥ではなく、
厳罰化そのものに違和感を感じているのである。
「何事もやらないよりはマシなのかも知れないが、違和感を感じる」という感覚。
この感覚は、エセ・エコロジストの環境活動に対して感じる
「その目的に対してその手段かい!?」
という違和感と同じような感覚である。
ここまで、まずは飲酒運転の「不寛容化、厳罰化」について書いた。
以降、中編では飲酒運転以外の「不寛容化、厳罰化」事例を書き足し、
後編では今回指摘している「不寛容化、厳罰化」の原因について考察する。