世間では受験シーズン真っ只中である。
今年、先ほど実施された某私立大学の現国の問題で
「社会学的な宗教論」とでも言うべき論説が出されていた。
DIE丸の根源的哲学に触れるような印象深い文章があって、
色々考えたので紹介したい。
久々に堅い話だけど、面白い話だよ。
出題では、作者名しか表記されていなかったし、申し訳無いことに
お名前も忘れてしまった。以下、「筆者」とだけ書く。
まず、与文より。
「本能」⇔「知性」
人間と人間以外の生物の持つ知性は明らかに異質なことは自明である。
ここでは人間以外の生物が持ちうる知性を「本能」と定義し、
人間のみが持ちうる知性を「知性」と定義する。
では、本能と知性の対立軸はどこにあるか。
一瞬逆説的にさえ感じるが、筆者は
「本能」=個体よりも、自分が帰属する「社会」の幸せのためにあるもの
「知性」=社会よりも、この私「個人」の幸せのためにあるもの
と主張する。
以上が与文の前半であった。
なるほど興味深い。革新派、人権派などに限って、ヒトたるもの本能のままに
振舞ってはならないと主張する。確かに「本能」のままに弱肉強食が罷り通る
無秩序な社会では、ある意味その「社会」は淘汰が進み発展するだろうが、
それでは弱者が切り捨てられる。知性によって弱者救済の共存社会を構築する
ことが「人間らしい」良い生き方、良い社会である。低い次元ではこの面が
常識的だ。本能のままに貪り、略奪することは良くない。常識だ。
しかし、実際はどうか。筆者が主張する、この上の次元を考察すると
俺なりの結論では「もっと本能の声に耳を貸せ!」ということになる。
「悪いことをすると心が痛む。」「良いことをすると気持ちが良い。」
これらは知性の為せる業ではなく、個人よりも種や社会を優先する本能が
為せる業だと、この文章を読むと気付かされる。
私に言わせれば、特別な「学者」や「モノ書き」などの専門家でなくても、
余りに多くの「普通の人」が、本能の声に耳を塞ぎ、
低レベルな知性を持て余して「アタマでっかち」になって、
神も仏も無い世界で、自分で自分のクビを締めてやがる。
(もっと思想的に、「伝統も公共性も無い世界で」と言い換えても良いだろう。)
(↑ 保守派? コミュニタリアン? Yes,I am. )
重ねて、「もっと本能の声に耳を貸せ!」と主張したい。
人権派やリバータリアン、その他の反保守どもには特に!
閑話休題。
以下の部分は、与文のみならず、「出題者」の意図を踏まえてた解釈を紹介する。
(つまり、与文にはここまで書かれていないが、このように解釈しないと設問が
解けなくなっている、という解釈である。作者の言っていない言葉も入る。)
「筆者+出題者」が主張するには、
「本能に抗う知性は、2通りの方法で自分自身を滅ぼす」
と言う。
(1)一つ目は、その「反社会性」。
知性が求める幸せは、あくまで「この私個人の幸せ」であるが故に、
個人の幸福のために、社会性、公共性を破壊させる。ただし、社会が崩壊すれば
その結果「この私個人の幸せ」も失われることになるので、知性が知性に対抗して
規範を作る。それが「法規」や「刑罰」である。しかし、あくまで
社会性や公共性以上に「この私個人の幸せ」を追求する知能が作った法規や刑罰では
十分な効果は無く、社会は崩壊に向かい、自分自身を滅ぼす。
(2)二つ目は、その「死の概念」。
生物の中で「知性」を持つ人だけが「この私の死」を認識する。
「この私個人の幸せ」を追求する「知性」にとって、死の認識は
大きな不安感と無力感をもたらし、自分自身を滅ぼす。
なるほど、確かに、例えば「自殺」を例にとっても、
人間以外の生物が「自殺」と言える行動をとるとき、それは「群れ」のためのみ、
「この私のエゴ」や「この私の救済」のための自殺をするのは人間だけだ。
以上の論考により、「筆者+出題者」の結論は以下のようであると解釈出来る。
ヒトは西暦元年頃以前に、強大な「知性」を手に入れていた。
同時に、知性に敗北しそうになった「本能」は、「知性」への反乱を企てた。
その反乱の武器こそが「不条理なるものの集大成」=「宗教」である。
宗教は(1)に対しては「苦味」を、(2)に対しては「甘味」を与える
という方策でもって「知性への反乱」を実行する。
まあ、私に言わせれば、「宗教」の扱いについては、
これで説明出来ていないような残尿感が残りまくりだが、
これはこれで面白い宗教の見方だと思った。
しかし、それ以上にこの「本能⇔知性」という定義付けこそ、
最高に画期的で面白かった。