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2011年10月15日 (土) 08時12分
志氣
過去記事〜「実相独在 講義」榎本恵吾先生

(398) 「実相独在 講義」榎本恵吾先生  投稿者:藤原先生の大フアン
実相独在の権化と言われた

宇治の伝説の講師です。

榎本恵吾本部講師
(平成17年7月12日逝去)

御 文 章


人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。

― 「研修のヒント」“はしがき” にかえて―



これから諸君の前に、あの練成道場がよいのか、この練成道場がよいのか。あるいはまた、あの修

行がよいのか、この修行がよいのか。厳しいのが良いのか、易しいのがよいのか。いろいろな人達に

逢って、色々な意見を聴かされて、その判断に迫られる時があるかも知れない。これらのことは、今

昔を問わず、常に偉大で真剣な先人たち、宗教家と言われる人々が直面して来た、重大で、最もいの

ちがけで当らなければならなかった問題であったのであり、今でもそれは少しも変ることはありません。
 老婆心ながら私の信とするところをしたためますから、参考にして下さい。

 どちらの道を選ぶかは全くのその人その人の自由でありますが、

次のことだけは判然としています。 すなわち、

 人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。修行が出来たか出来ないかということと、救


われるか否かは全く関係のないこと。このまま自分もひとも生かされていることを喜び感謝するのが

神の子の生活であります。

 修行。例えば、練成を受けること。研修を受けること。神想観をすること。聖典を読むこと。愛行

をすること等……は、すべて現象であって無であること。

 それらがすべて無であることが真理でなければ、「どうして全能なる神が、釈迦、キリストのよう

に修行の出来ている人々と、修行の出来ないものとをつくったのか。どうして不完全なもの、すなわ

ち修行をしなければ救われないものをつくったか」という疑問を解くことが出来ない。神は完全であ

るということは、修行の成績は無であって、本来このままで救われ切っている完全なるものだけがあ

るということであります。


 しかし、「このことを自覚しなかったら無いのと同じで、その自覚することに当るのが、いわゆる

修行である。」と従来までの宗教では説かれていたのであります。ところが尊師谷口雅春先生は、そ

れは方便としては一応は認めておられますが、本当は人間は神の子であって、そのままで自性円満で

あることを発見されたのであります。それは“自覚する”という人間の修行、努力の助けを借りずと

も人間をそのまま完全に生み給うた神の発見だったのであります。

 自覚する、自覚しないは現象のことであって、本来“無”であります。



 自覚するというのは、おのずから覚めているということであって、「……の教えによって」とか

「……の修行によって」となるとそれは自覚ではないのであって、他によって覚めさせられた他覚で

あります。自覚とは自ずから覚めていること。私たちは自ずから覚めている生命であるからこそ、こ

の生長の家の真理にふれることが出来たのです。



 自覚しなければ無いのと同じであるというのは、それはお金などのような物質の場合の話であっ

て、生命は自覚しない方が、伸び伸びと活動するのであります。心臓などは全くあることが解らない

ときが一番よく働いているときなのであります。これを「吾が生くるはわが力ならず」とも「吾がわ

ざはわが為すにあらず」とも教えられているのであります。



 もしも神は、修行した人だけしかよう救わないというのであれば、殆んどの人類を救うことが出来

ない力不足の神を認めることになって、“修行しなければ”というのは神を尊敬するのではなく、神

を軽蔑することになります。



 そして、最も重大な問題は、

「修行しなければ……」という立場に立つと、修行の出来ていないと思う人を審かざるを得ないので

あります。「あの人も出来ていない」「この人も出来ていない」そして「自分も出来ていない」とい

うことになって「天地一切を拝む」のではなくて、「天地一切を審く」という罪を犯すことになると

いうことであります。


 そして、「あの道場は……」「この道場は……」と道場同志が審き合うということが始るのであり


ます。これが多くの宗派が派閥に別れた原因の一つとなっているとも考えられるのであります。

 無条件にある光り。世界に比類のないみ教えにふれている私たちが、世界に比類のない調和と、拝

みと、感謝の、崇高な、安らかさに満ちた毎日毎日を与えられていることに感謝を捧げる、ただ一筋

の道がここにあります。

 この心に満ちて生きているとき、私たちは神への全托の道を生きているのです。神への全托の輝きに満ちている研修生をひたすら礼拝させていただくのみであります。われらの道は“審かない道”“拝む道”であり、自分を拝みひとを拝む道であります。

 私は“修行をするな”というのではないのです。“修行をしなければ救われない”というのはもう

すでに生長の家のみ教えではないということであります。むしろ、無条件に生かされていること、こ

の身このまま光りであることを知れば研修が楽しくなるのであります。「研修のヒント」とは「楽し

さへのヒント」ということであります。

 とにもかくにも、私達は先ず光りであり、すべては完全である神なる光りがするのであつて、「光

りになるために」ではないということであります。


 どの師を選び、どの練成道場を選ぶかは全くの自由でありますが、どこに行くにしても、それは

“光り”がそこを輝かせに行くのであること。“救われているもの”が行くのであって、“救われる

ため”に行くのではないということであります。

 ますます自己祝福と自己礼拝を歩まれんことを。研修生に栄えあれ!




1.天地一切のものは、すでに和解し調和している




 神は天地宇宙を創造し給いながら、そのいずくにも記念碑のようなものはたてられていないのであ

ります。神を否定しようとすればいくらでも否定出来るように、全く姿を消してい給うのでありま

す。「神など無い」という人さえも生み給い、その声も神が出させているのでありながら神はご自分

を現わしていたまわないのであります。「神は無い」と強く言えば言うほど「それほどまでに姿を消

していられる神はまことにも偉大であるかな」と思わしめられるのであります。



 尊師谷口雅春先生の著わされた『生命の實相』も、これと同じ姿をしているのであります。萬物を

生かし輝かせながら、「自分が救ってやった」というものは少しも無いのであります。「自性(じし

ょう・そのままで)円満」なる神の子の姿をただただ祝福し、礼拝する、その拝みの姿としてあるの

であります。『生命の實相』の中には「物質無し」と書かれているのであります。「物質無し」と

は、本自身が「私は無いのです」と無我になって澄み切っているのであります。無我になっていると

は、天地一切のものを神仏として拝んでいることであります。ここに「汝ら天地一切のものと和解せ

よ」ということ、そして和解するとは感謝するということであるということの、その感謝の内容が示

されているのであります。本自身が天地一切のものを拝んでおり、感謝と祝福の輝きそのものなので

あります。


 尊師谷口雅春先生がお悟りになられたとき、目覚めてみれば天地一切のものが神そのものであった

のであります。その心境を尊師は「汝ら天地一切のものと和解せよ」と喜びうたわれたのでありま

す。『生命の實相』や『甘露の法雨』の冒頭に「大調和の神示」がおかれているのは、人間は「仲よ

くせよ」といってもなかなか仲よくしないから、先ず最初によくわかるように警告を発しておくため

に、あの神示がおかれているのではないのであります。そうではなくて、「私が悟ってみたら、どん

なに殺し合い、憎しみあっているかのように見えていても、そのまますべてが神と神、仏と仏とが抱

き合って喜んでいる姿に観えて来たのであります。ありがとうございます」と、尊くも尊師が天地一

切のものを拝んでい給うことを示されたものであります。ですから、谷口雅春先生の住んでいられる

世界は、すべてが神仏に観えていられるのであります。「神一元」つまり「唯神實相」論からゆけ

ば、「今ここ極楽、天国浄土」なのでありますから、谷口雅春先生だけが悟っており、その他のもの

はすべて「これからみ教えによって教えて悟りに導いて彼岸に度すべき材料」ばかりが住んでいる、

というような天国はないのであります。それ故、谷口雅春先生がお悟りになったということは、同時

に全宇宙が悟ったのでなければならないのであります。「同時成道(どうじじょうどう)」なのであ

ります。「同時成道」は釈迦の表現せられた言葉であります。お釈迦さんが悟りの眼をもってごらん

になられたとき、山川草木国土悉皆成佛(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情

同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)と観えたのであります。そのように釈迦がすべてを

拝まれたのであります。これはお釈迦様の「汝ら天地一切のものと和解せよ」の現成であったのであ

ります。

「衆生劫尽きて、この世の焼くときも天人満つる、わが浄土安穏なり」というのが、法華経にありま

すが、これは衆生が苦しんでいるのに自分だけが一人安穏な状態で嬉しいというようなことではない

のであります。それではお釈迦さんは何という冷たい人間かということになります。もしそうである

ならば衆生が苦しんでいるのに自分だけが一人安穏としているというのは、『聖使命菩薩讃偈』と矛

盾しているといわなければならないのであります。衆生を放ったらかしておいて、自分だけが浄土に

住んで衆生の苦しみに対して高見の見物をきめているということになってしまうのであります。果し


てこんな状態で大慈大悲の釈迦牟尼世尊が安穏としておれるものだろうかという疑問が湧いて来るの

であります。世界と自分というものを分けて考えると、お釈迦さんの心境もわからなくなるのであり

ます。やはりお釈迦さんがお悟りになったとき、全宇宙が悟ったのであります。それはお釈迦さんだ

けがポツンと光となったのではなくして、すべてを解決されているのです。それですから衆生が劫つ

きて苦しんでいる姿そのままに苦しんでいない仏のすがたを、つまり、自分のいのちと同じいのちが

そこにあるのを拝んでいられるのであります。自分が完全であるように、すべての人々の實相が完全

に見える、ということを書かれたのが法華経の「自我偈(じがげ)」の真意なのであります。



 それと同じようにして、尊師谷口雅春先生の、すべてのもの、つまり天地一切のものへの祝福と礼

拝とが録されているのが『生命の實相』なのであります。でありますから、『生命の實相』は神の愛

と大生命の大光明の祝福礼拝のすべてを尽して光明のかたまりとなっているとでも申し上げるのがふ

さわしいのであります。それですから、研修生のみなさんが『生命の實相』や聖典をかかえて歩いて

いられる姿は、まことにも光り輝く神の子が、光明そのものなる『生命の實相』をかかえていらっし

ゃるお姿でありまして、まことに尊いお姿をそこに拝ませていただくのであります。



このとき最早、聖典の中の一文字一文字が、神の吾れを讃え給う愛の光そのものなのであります。ど

のようなことが書かれているのかという前に、すでに聖典全体が光体そのものなのであります。それ

ですから、たとえば研修生の諸君が聖典を手にしていられるとき、聖典の輝きがさんさんとして全身

の毛穴から流れ入っているときなのであります。胸にかかえているときは眼を通さずとも直接聖典の

光りが胸の中に直射して入って来ているのであります。手でさわれば指先から直接に光明がはいって

来ているのであります。



 かくの如くして、天地一切の山も川も緑も青も黄も花々も人々も、光明身である神の子なる自分を

讃嘆する神の真理のコーラスであると拝ませていただくとき、すべての人々は、周囲のすべてのもの

という光りにつつまれていられる姿であるのであります。まさにこれは光りが光りの中で光りしてい

るのであります。「讃嘆の中で讃嘆しているのが研修である」というのはこのことなのであります。

何かしら力強きもの、円相なるもの、喜ばしきものの気配がふっくらと自分の眼にふれる限りのもの

を包んでいるのを感じるとき、そのものとこちらが調和の状態にあることを私たちの本性は知ってい

るのであります。


 景色を見て私たちは「いいなあー」という思いが湧いてくるときは、私たちはその景色と調和し、

和解し、感謝が通い合っているときなのであります。不調和であるならば「いいなあー」という思い

にも、いつまでもふれていたいという気持にも、なれないはずであります。



 研修生の諸君が宇治別格本山の境内を景色を眺めながら歩いている姿を見るときがあります。その

とき、その人は景色全体と和解が成立しているのであります。本山を囲む山の木が何十万本あり、木

の葉が何億枚あり、土の砂つぶがどれだけあるのか、はかり知れませんが、それらの一つ一つとすべ

て和解が成立しているのであります。和解が成立しているとき、もう既に神がそこに顕われてい給う

のであります。そして自分をとりまくすべてのものが神であるのであります。本当は神がすでに現わ

れ給いて自分を生かし感謝し和解せしめ給うていたのであります。



 そもそも私たちは神のいのちによって誕生し、生かされていたのであります。和解のあるところ神

があり給い、神のあるところ和解があるのでありました。天地すべてのものに感謝したときに神が顕

われるのであります。そして天地一切のものがすでに神であることを礼拝するのが感謝であります。

そしてまた天地一切が神であることを拝めるのは、自分のいのちが神であるからであります。すべて

において神が神の世界で神しているのが私たちの生きている姿なのであり、實相の世界で實相が實相

しているのがこの世界であり、唯神實相、光明一元の教えが生長の家の教えであります。



 尊師が啓示を受けられたとき、庭の木が黄金色の光りに輝き、その木の枝から枝に飛びうつる雀が

金色に輝いていたのであります。このときすべての生きとし生けるものがこのように拝まれたのであ

ります。尊師が「招神歌」において「生きとし生けるものを……」と言われるときは、このような光


明生命として生きているすべてのものを拝み給うているのであります。



 研修生が『生命の實相』をひらいてあちらのページ、こちらのページと読み移られる姿は、聖典と

いう光明の木の中でページという光明の枝々をとびかう金色(こんじき)の雀の姿として、尊師は私

たちを拝み給うているのであります。また、あちらの部屋からこちらの部屋へと移り、あるいは棟か

ら棟へと移られる練成員のお姿もまた、そのように拝まれているのであります。

 『生命の實相』は、ただただそのような生命のほんとの相(すがた)を、讃えに讃えて書かれたも

のなのであります。




2.ただあるものは聖なる生長と発展のみ




 昨日お逢いしました時と、今朝お逢いしたときとでは、その喜びと光明の輝きがまた一段と生長し

ていられるのを観じさせていただきます。それは、まことに嬉しいことであります。すべてのもの

は、時間を経ることによってそこに喜ばしい生長を実現しています。吾々が時間を生かすのかと思っ

ておりましたが、時間は吾々を生かそう生かそうとする神の愛の現われであると想われてきます。

吾々が時間を生かすというよりも、神の愛の現われである時間が吾々を生かすのだと想えてきます。

それは時間を経るにしたがってみなさんが確実に生長と輝きを増されているのを拝しますときに、自

然とこちらの心にそう想えて来るのです。人間は神のいのちであり、いのちは不滅でありますから、


いのちにとりましては、あるのは生長、発展ということのみであります。


 聖経『甘露の法雨』には、「人間は神そのものなるが故に、罪を犯さんと欲するも罪を犯すこと能

わず、病に罹らんと欲するも病に罹ること能わず」と録(しる)されております。吾々には罪を犯す

自由もなければ、迷う自由もないのであります。罪を犯せたと思っても罪は犯せていないのでありま

す。迷えたと思っても迷えていないのです。



 ただただそこには輝く神のいのちの生長があるばかりであります。光りには暗(やみ)になる自由

はないのであります。神には悪魔になる自由はないのであります。それでいて、光りは喜ばしいもの

の象徴であり、神は完全なるもののすべてであります。


 人間は神の子であるのに何故迷うのであるか、ということは大きな問題でありつづけているのです

が、生長の家では人間は神の子なるが故に、迷うことが出来ないと言い切っているのであります。神

は人間に自由を与え給うていて、迷う自由をもちながら善を生きるのがより善いのである――と一応

は方便説として説かれていることもありますが、本当は、人間には迷う自由は無いのであります。絶

対命令として、人間は光りを生きる以外には出来ないように神によって宣言されているのでありま

す。

 光明一元とは生長一元ということであります。これが聖なるものの本質であります。聖なるものと

は、輝くもの、輝かせるもの、神なるもの、一元なるものであります。それがそのまま私たちのこと

であります。輝かせるとは、すべてのものの中に聖なる輝きを拝むことであります。私達は万物に向

って「聖なるかな」と讃えかけ、拝みかけることが出来る。これは何という光栄なることでありまし

ょうか。

 「罪の意識に泣きぬれた人々よ、あなたはそのままで聖なる輝きそのものなのですよ」とすべての

ものに呼びかけ得ること。神とともにそうしているのであるということ。「聖使命」とはなんと素晴

しい言葉でありましょうか。私達が神様とともに、尊師谷口雅春先生とともに、万物への礼拝を生き

ている、今ここに聖なるいのちが輝いている。常に、久遠に、聖なる輝きは、今、ここ、わが内、す

でに、ということであります。



 今、ここ、すでにあるものでないものは聖であることは出来ない、とは繰り返し教えられていると

ころです。私達はすでに輝くものである。天照らすものである。静かなるものである。「宇宙(く

に)静かなり」の「静か」とは、すべてのものが処(ところ)を得ていることである。聖は聖。光り

は光。神は神。人は人。すべてそのものが自らをそのものしているときを「静かなり」と言うのであ

ります。人間は神であり、聖であり、至上であり、光りであるときを、「静かなり」というのであ

る。

 心臓でも、異常があって動悸が大きくしているときはまことににぎやかでありますが、それは心臓

のいのちが処を得ていない、充分にその働きが出来ていないときであります。心臓が処を得て、まこ

とになめらかに作動し、人体に最もよい貢献をなしているときは、心臓があるのかないのか全く忘れ

られているときであります。「静かなり」とは、全くすべてのものが調和して、澄み切って、大活躍

の出来ているときであります。全くの澄み切りの状態であります。それは全く気づかれないすがたで

あります。それは、吾々が迷えたと思っても、全く気づかないにもかかわらず輝きつづけ、生長しつ

づけている神の子のいのちの輝きと同じであります。いのちは、聖なるうちに聖なる生長、発展を遂

げつつあるのであります。われわれの聖なる使命は、すべてのものと大調和のうちに、大調和が大調

和しつづけて行きつつ果されてゆくのであります。それは神に生かされて、自らなされているもので

あります。山を観よ、川を観よ、木を観よ、花を観よ、空を観よ、海を観よ。そこには何か、自ずか

ら吾らに心を開かしてくれるものがある。しかしただただ、そこには山は山し、川は川し、木が木

し、花が花し、空が空し、海が海している姿があるのみである。「同じものが同じする」という、処

を得た静なる姿があるばかりである。



 そして、それを偉大でないとは誰れも言わないのであります。偉大とは、自足ということである。

他によって成り立っているということではない。人間はそれ自身で神の子であって、聖であって、静

かであって、そのまま偉大なのである。神は宇宙を創造し給い、万物を生かし生長せしめていても、

姿を現わし給わず。コトリとも音をたててい給わないのである。全く静かなるものである。全く己れ

を消してい給うのである。ここに聖なる、至上なる輝きがあるのであります。神はどこにも姿をあら

わし給わず、否定しようと思えばいくらでも否定出来るようにしておられるのである。無神論者が神

を否定すればするほど、それは神の無我なる、聖なるものの偉大さの自己証明となっていることを、

そこに拝まずにはいられないのであります。



 静かなるうちに、聖なるうちに万物は生み出され、生長し、発展しているのである。静かなるも

の、聖なるものとは、知らぬうちに、自覚されないうちに、すでにあるもののことである。神の子は

「修行、修行」という大きな音をたてる必要は全くないのである。ただただ、すでに生かされてあっ

たことに想いをいたすことがあるだけであります。ただただ輝いているだけなのが、神の子でありま

す。


 ただただ、神の子が神し、聖が聖している自足の喜びが天地万物を生かし照らす。この「ただた

だ」ということが最も尊いことであります。

 『聖使命菩薩讃偈』には、「己れ未だ度(わた)らざる先に、他を度さんと発願修行する」のが聖

使命菩薩であると讃えられています。これは菩薩というものは、「悟る」ことや「救われる」という

彼岸(ひがん)に度(わた)るということをかりずに、自ずから聖なるものであることを示されてい

るのであります。此岸(しがん)にいるままで最高最尊であり得ることは、まことに偉大でありま

す。



 聖なるものとは、自立自存の輝きであります。自立自存なるが故に、人間の努力精進や、悟りや

、救われるということのたすけをかりないのであり、それ故に最高、最尊、甚深微妙(じんじんみみ

ょう)なのであります。この自立自存の最高最尊の姿が純粋に持続されているのが、私たち菩薩のい

のちである――と、尊師谷口雅春先生が、天地一切のものへの感謝として歌ってい給うのが、『聖使

命菩薩讃偈』であります。



 人間は生長しかない、生長しつづけている――と言っても、「神なるものが神している」という最

高最尊なるものの持続ということでなければ、聖なるものの生きている姿ではありません。そのいと

も尊い厳かなるものが、吾れも知らず、ひとも知らずして、久遠の昔から生きつづいている。さまざ

まな姿をとってそれは展開しているのであります。吾々の研修というのも、その一つの大いなるもの

の輝きであります。




3.今そのままで完全な實相を、讃え喜ぶことが大懺悔である




 懺悔には大懺悔と小懺悔のあることを、研修生の諸君はお聴きになったか、あるいは『生命の實

相』等の聖典をお読みになってご存じのことと思います。


 小懺悔というのは要するに、心のあり方、行いのあり方、つまり過去のそれらについて、一つ一つ

思い出して反省をすることに当ります。これはいわば煙草の煙を、火のついた煙草を持った手で消そ

うとするようなもので、ますます煙がつのるばかりであります。いくら努力しても混乱が深まるばか

りなのであります。また小懺悔は、暗い部屋を明るくするのに、暗さをみがいて消して行って、光り

が来てもいいように明るくしてから電燈をつけようとしているようなものでありまして、これでは永

遠に部屋は明るくならないのであります。

 これに反して、大懺悔というのは、暗さを放っておいて電燈をつけるようなものであります。電燈

をつけさえすればいいのであります。電燈をつけるのに当るのが、「實相を讃え喜ぶ」ことでありま

す。「すばらしい、有難い」と喜ぶことであります。それ一つだけですべての不完全は消えるのであ

ります。なぜならば、神は不完全をつくり給うていないからであります。神の創造し給うた世界に

は、不完全はない――實相の自分を素直に喜ぶことであります。暗ければ暗いほど、その暗さを忘れ

てしまって、明るさを持ってくることだけをやればよいのであります。たまには實相をみて自分をほ

め、たまには現象をみてそれを無くそうと厳しく反省をする、というように、前を向いたり後ろを向

いたり、していてはエネルギーの無駄使いとなります。それどころか心が前後に分裂してしまって、

ノイローゼになってしまうのであります。ただただ神の子はまっしぐらに、光を喜んで前進するだけ

でよいのであります。

 あるとき練成を受けに来られた男のご老人がありました。「神の子である私は、すべてよくなる、

ますますよくなる」ということを毎日毎日となえて、喜びの生活がはじまったのであります。



 ある日、田んぼに出られて畔(あぜ)の草かりをしていたのであります。「ますますよくなる。ま

すますよくなる。ありがたい。ありがたい」と喜びながらやっていると、チカッと何かが手にかみつ

いたので、手をあげてみるとマムシがかみついていたというのであります。その人はそのままで、

「これでよくなる。ますますよくなる」と言ったというのであります。マムシはバタッと落ちると逃

げて行きました。それからその人は、マムシの毒のために意識不明になり、高い熱が出て、身体はゴ

ム風船のようにはれ上り、一週間そのままの状態がつづいたのであります。それでもうわごとで「こ

れでよくなる。ますますよくなる」と言っていたそうであります。だいたい、マムシにかまれてここ

まで生きておられるのがもう奇跡的なことなのでありますが、実はその人は全身の関節リュウマチ

で、冬になると関節に布団針をさしこまれるような激痛に悩まされていたのでありましたが、一週間

たちますとハレがいっぺんに引くと同時に、それっ切り、その関節リュウマチが消えてしまったとい

うのであります。

 この話には、実にさまざまなものを教えてくれるものがあります。実に素直なこの人の心境が伝わ

ってくるのを憶(おぼ)えるのであります。ひとつの体験というものが生まれますと、それを聴く人

によってさまざまなものが受けとられるのでありますが、この人がまむしにかまれているのを見たと

たん、「自分はここまで練成を受けて来たのに、自分の心の中にはまだ他人(ひと)にかみつきたい

心があるから、こんなことになったんだ。自分は駄目だ」という反省の方に心を持っていかず、「こ

れでよくなる。ますますよくなる」と前へ前へとつき進んで行って、決して反省という後ろ向きにな

っていないところが実にすばらしいと思われるのであります。心のあり方に捉われて反省していたの

では、助からなかったのではないかと思われるのであります。ここに、宗教のとりあつかう生命とい

うものが、反省をとび超えて喜ばしいものを実現するものだということを、教えてくれているように

思われるのであります。暗さを消すには電燈をつければよい、ということを生きておられる話だと思

われます。

 「現象は無い」ということ。生長の家のみ教えの根本の真理は「現象なし」ということにありま

す。現象をみれば、たしかに、この方は人にかみつきたい心があって、その心の現われとしてマムシ

にかまれるということが出て来ている、ということは間違いのないことなのであります。この心の法

則というものは、絶対にくるわせることは出来ないのであります。イエス・キリストも「汝もし右の

頬をうたれなば、左の頬をもめぐらしてこれに打たせよ」といっているのでありますが、大体イエ

ス・キリストともあろうものが、なぜ人に右の頬をなぐられることになるのかということが問題であ

ります。これはやはりイエス・キリストが人をたたきたい心があるからであります。その結果なぐら

れることになったということは間違いのないことであります。この心の法則というものは絶対に間違

いのないことなのでありますが、ただしこれは現象の法則でありまして、現象は無いのでありますか

ら、この法則そのものが「無い」法則なのであります。心の影が現象であるというのですが、心その

ものも現象であって、實相、實在ではないのであります。だからこそ、どんなに現象が現われていて

も實相は傷つくことなく輝きっぱなしであります。そして「現象は雲のようなもので、形に現われる

と心の業も消える」という法則によりまして、たちまち消えて、しみひとつついていない青空ばかり

が残るのでありますから、形に現われましたことは放っておいて、實相の方を喜んで行けばよいので

あります。實相を喜ぶ心は實相の心であります。その心がここに生きており、その心が神でありまし

て、「これでよくなる。ますますよくなる」という宣言によって、ますます喜ばしいものをその人の

周囲に実現して行くのであります。それで「これでよくなる。ますますよくなる」ということによ

り、このようなすばらしいことが現実化したのであります。



 私たちにとっては、ただただ光りの前進があるばかりであります。西洋の物語で、ある山の上にす

ばらしいものがあって、それをとりに行くのに山頂に近づくと、後ろから美しい声が聴こえてくるの

です。そしてその声の方をみようとふりかえると、たちまちその人は石にされてしまう――という物

語は、お読みになったことがあると思いますが、この後ろをふりむくというのが、われわれにとりま

しては過去をふり向いて反省するということにあたるのであります。すると現象の悪に心がひっかか

りまして、その悪に自分でつかまって自縄自縛されてしまうのであります。つまり石のように動けな

くなってしまうのであります。

 ところが、勇敢にも、どんな美しい声が聴こえて来ても後ろをふり向かず、山頂に登った人があっ

たのです。そして、その宝ものを手にしたとき、今まで石にされていた人々が全部生きかえったとい

う物語であります。このように、まっしぐらに光の前進のみをつづけていますと、過去のいまわしい

と思われていたことも、「あれがあったればこそ現在がある」とか「あれは自分がつまらないからあ

あなっていたと思っていたが、そうではなく、自分がすばらしかったからこそであったのか」という

ようなことになって、そのとき、周囲にいられた人々も自分を生かして下さる観世音菩薩様だった、

神さまだったと、生き生きと輝く姿で心に甦ってくるのであります。もうこの時、私たちはその人へ

の感謝が出来ているのであります。感謝が出来ているということは、もうそこに神さまが現われてい

給うということであります。そしてますます感謝の思いがひろがって行く、ということになるのであ

ります。




4.「神の国」「元津(もとつ)みたま」は、わが内にあり




 研修生の、ある大先輩から来たお手紙の一節です。

 「いまだに忘れられないあの日あの時。以来、昨今、私にとって感謝一杯の日々となって参りまし

た。『生命の實相』を読んで、或る瞬間に達すれば必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるこ

とを、実感として体得しつつある現今でございます。その光は太陽の光よりもなお明るい光だと私は

思います。自分の体が透明になるような実感がして、毎日がたのしい日々です。自己の生命が無限生

命の光耀(こうよう)の中につつまれ、その無限の光耀の中に溶けこみつつ燦然(さんぜん)として

輝いている生き通しの生命こそ、わが生命であることを知ることが出来たのも、研修というすばらし

いご縁を頂いたからだと多謝しております。これこそ自分の生命であったのだ。今生きつつある地上

の生命の小さいこと。それはただ自分の本当の生命の輝きが、迷いの雲間にもれて、地上に印した小

さな光の点々にすぎなかったのです。迷いの雲間は裂ける。本当の自分は遅まきながら輝き出て来ま

した。地上に晴天の日の太陽が照らすごとく、本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らす

ことを確信します。いつまでも尚一層のご鞭撻をたまわりますよう、心よりお願い申しあげます。光

の子より。」

 私達は光りなのであり、喜びそのものなのですから、本来の自然の自分にかえり、喜びがますます


輝き出すと、それを外に向って表現させずにはいられない本性をもっているのであります。それは春

になると花が咲き、太陽が昇ると明るくなり、温かくなって氷が解け、上から下へと水が流れる、ま

ことに自然な姿であります。神想観の姿も聖典読誦も、ひとに喜びを表現するのも、それはまことに

自然そのものの生長の家の姿であるわけであります。生長の家の教えは、「自然の教え」と言っても

よいのではないかと思われるのであります。『生命の實相』の聖典も、あらゆる行持要目も神想観

も、すべてはお悟りになった尊師谷口雅春先生がそうお書きにならないではいられなくなって、そう

しなくてはいられなくなって、地上に真理の教えの喜びの花を咲かせられたのであります。ですから

「朝の時間を生かしなさい」といわれて、四時五十分に起床されるのも、そうしなければ救われない

からというのではなくて、神の子であることがうれしくてうれしくて、寝ていられなくて起き出され

たということなのだと思われます。



 或る教化部長のお子さんのお話だったと思いますが、小学一年生か二年生の息子さんが、明日は遠

足だというので、リュックサックに持って行くものをつめている。しばらくすると帽子もいっしょに

枕もとにおいて寝たというのであります。ところが夜半の三時ごろにお父さんが眼をさましてみる

と、隣りに寝ているはずのその息子さんが寝ていないのです。二階に行く階段のところまでいってみ

ると、その階段の中頃のところに、リュツクサックを背負い、帽子をかぶって今にも飛び出そうとい

う顔つきですわっているのです。「どうしたんだッ?」と声をかけると、「お父ちゃん、夜、なかな

かあけよらへんなあー」と言ったそうであります。まことに美しい話であります。この子供の心の中

に、希望と喜びの太陽が燦然と照り輝いているのを拝みたくなるのであります。



 これであります。こういう喜びの輝きとして、生長の家はすべて始まったのであります。中からふ

つふつと湧き出してくるのが、「ありがとうございます」という言葉であります。ふつふつと湧き出

してくるのが「人間は神の子だ!」という言葉なのであります。すべて生長の家のことは、この「内

なる神の国」(『甘露の法雨』―汝らの内にのみ神の国はあるなり)から現われ出でたるものであ

り、“イユーッ”という言葉となって湧出(イユーシュツ)したる光明の放射そのものなのでありま

す。「神の国は汝らの内にあり」とは、前に申しましたように、すでにあるすべてという意味なので

あります。神の国とは、すべてが完全に満ち足りているということであります。神の国とはすべてが

そなわっているということでありますから、一つでも足りないということのないものであります。そ

して「内に」ということは、既にあるから、これから外を探さなくともよいということであります。

この「外」にあたるのが、たとえ「修行」ということであっても、神の国は既にわが「内にのみ」あ

るのですから、修行するというような、ある時間の経過という未来なる「外」に求める必要はないと

いうことであります。



 またこのことは、天地万物が吾が内なる神の国より発していること、湧出していることを意味して

いるのであります。神の国とは、足りないものの一つもない、すべてが満ち具(そな)われるもので

ありますから、そのものがあるかぎりにおいて、わが内なる神の国より生れ出でたるものでありま

す。もしも、内にはないが外にだけあるというようなものが一つでもあれば、すでにそれは神の国で

はなくなっているのであります。ですから、神の国がわが内にあるかぎり、すべてのものはわが内よ

り展開し生れ出でたものであります。山も川も草も木も空も海も、日本も天皇も、谷口雅春先生も、

生長の家も住吉大神も、天照大御神も、すべてはわが内なる神の国から出でまし給うたのでありま

す。これは、天地は失せても崩れることのない真理であります。ここに天地万物の一体、即ち大調和

のすがたがあるのであります。また、天地万物がわが内なる神の展開し給うたものであるということ

は、神が出でまし顕われ給うているのでありますから、天地一切は大和解そのものであるということ

であります。感謝、和解、大調和は今此処にあり、であります。「感謝、和解」とは、ここに見よ、

彼処(かしこ)に見よというが如くにはないのであり、それは「ここに見よ」というだけでありま

す。わが内にのみ感謝はあるのであります。自分が感謝なのであります。この自分を拝まないで全宇

宙を探しても感謝は無いのであります。「自分はいないか」と外なる全宇宙を探しても見あたらない

のであります。なぜなら「自分がその自分である」からであります。



 この「内なる神の国」を想うとき、「世界平和の祈り」となっているのであります。全地上、全宇

宙を生み出し、愛の輝きの展開として万物が生き、そして、中心帰一ということがまことに現成(げ

んじょう)していることを体感するのであります。


 「招神歌(かみよびうた)」の中の「元津(もとつ)みたまゆ幸(さき)はえ給え」というお言葉

は、人格的に神をよびたい我々人間の本性的なものにこたえて下さる神への歌でありますが、もう一

つ「元津みたま」とは神のいのちであり、その神そのものは内にましますのであります。それ故「元

津みたまゆ幸はえ給え」とは、わが内なる神と神の国にある「元津みたま」をすべてに向って「幸は

え給え」ということであります。つまり、自分は元津みたまを「分け与えられる」方ではなく、内な

る神とともに、元津みたまを「わけ与える」存在であることの宣言なのであります。そして神と、ひ

とつの神が広がっているその広がりを、天地宇宙というのでありますから、このさまを四首目の「天

地(あめつち)の祖神(みおや)の道」と表現されているのであります。「道は宇宙にみちて欠けざ

るが故に道という」と『甘露の法雨』にあります。われと神と一つなる生命が全宇宙となってひろが

り、全宇宙をなして満ち満ちているのであります。この全宇宙を「生長の家」というのであります。

生長の家とは、天地万物を生み出し生長発展させる原理であり、その原理はわが内なる神の国にある

のであります。わが生命は、「生長の家」をなして存在しているのであります。それはまた絶えず外

へ外へと拡がり生長する生命なのであります。




5.神の智慧は、人間知恵に邪魔されてくもることはない




 研修生の諸君は、ここに来てからよく、「何ごとも、人間智慧でやってはいけない。神の智慧で行

なわなければならない」と教えられたことでしょう。


 あるとき、研修生の一人がたずねたことがあります。「人間智慧ではなく神の智慧でなければ、と

言われるんですが、私には、どれが人間智慧でどれが神の智慧なのかわからないんです!」と眼に涙

をにじませて言うのでした。これば実に素直に自分の心を表現しています。その人はおそらく、この

ように質問することそのことが神の智慧か、人間の智慧かと考えたかもしれませんが、このような質

問は実に素直で美しいのであります。このような言葉には、神だとか人間だとかということを忘れさ

せてしまうものがあります。素直さが出れば、それが文句なしにこちらに喜ばしいものを感じさせて

くれるのであります。


 素直さが出ていると、疑問自体、質問自体が美しいのであります。


 禅宗に問答があります。『無門関』など、千五百年も昔に発せられた質問であり、生命が唱いあげ

た比類のない美しいテーマであります。それですから後代の人々が、いのちをぶっつけてこの公案に

取り組んで来ているのであります。取り組んでも取り組んでもつきない、いつも新しいすがたをもっ

て、後代の人々から新鮮ないのちの喜びを発露させるのであります。「美しい」とは「素直」という

ことであり、それは永遠に古くならないのであります。ますます新しい姿で私たちに迫ってくるので

あります。それは大自然のごとくであり、それは青空のようであり、大海原のようであり、また一輪

の野の花のごとき偉大さとやさしさがそこにあるのであります。問題自体が感動を与えるということ

があるのであります。


 あるとき講話中に、聴いていた練成員がつかつかと演壇のところに近づいて来たかと思うと、講師

の前にあるマイクを手でつかんで、それを前後にゆさぶりながら泣き声ともつかぬ切なる声で「先

生! そこがわからない! どうしたら解るんですかッ。三十年もやっているんです。どうした

ら……」といって片手のにぎりこぶしで演壇をたたいておいおいと泣かれるのでした。これはもう、

講師をやっつけるための質問などではありません。自分の中にある神性なる太陽の輝きが、表面の心

の雲をつき破って全地上を照らすときの様相であります。その姿には講師も聴衆も感動したのであり

ます。感動したら、もう質問するものと答えるものとの和解が成立しているのです。和解していなか

ったら、感動するということはあり得ないのであります。「素直」のあるところ、必ず美しいものが

そこにあり、そこには感動が生れるのであります。感動した講師はいいました。



 「あなた、“神の子がわからない”と言われますが、いったいそんな立派な大きなお声はどこから

出て来るのですか。あなたの心臓を動かし、体を生かし、そして声を出さしめているのが神なのです

ねェ。私から観たら神のいのちが、神が、『解らない!』といっていられるんですよ。神も、神の子

も、ひとごとではないんですよ。あなたが神であり、神の子なんですよ。私から見たら、『解らな

い!』といって神のいのちが輝いていらっしゃるんですよ。ありがとうございます。」


 こう、その講師から言葉が出て来たことに、講師自身が感動したのでした。これがまた感動を呼ん

だのであります。そしてその人の声は、喜びの声にかわったのでありました。

 この人の素直な質問が、講師から感動を引き出したのでありました。このとき講師にとっては、自

分の前にいる人々すべてが、自分よりいのちの輝きを引き出して下さる神さまであることに、眼をひ

らかせられた想いであったでありましょう。釈尊が「山川草木国土悉皆成佛、有情非情同時成道」と

いわれたとき、一切のこの世にある質問も成仏して、仏がそこに輝いて鳴っているのを観じておられ

たのであります。公案そのものが燦然と輝いているのを拝める人にとっては、すべてがそれへの答え

となるのであります。生長の家ではこのところの消息を「われをとりまくすべてのものは、観世音菩

薩の吾れを讃える姿である」と説かれているのであります。「煩悩即菩堤(ぼんのうそくぼだい)」

という言葉も仏教にはあります。


 最初の研修生の美しい質問にもどりましょう。その質問に感動した講師は次のように話したといい

ます。

「あなたねえ、本当の神の智慧というものは、人間の知恵が出て来たからといって、無くなってしま

うものではありませんよ。人間の知恵に邪魔をされて輝きがにぶるというのは、実はそれは本当は神

の智慧ではなかったのです。人間が心してやらなければ出来ないようなものは、神のものではありま

せん。神の智慧は、人間がどうあろうとも、それによってくもるものでも、無くなるものでもないの

です。そしてすべてを満たし、生かし、遍満しているものです。われわれが、それがあるとかないと

かを心配する必要は全然ないのです。ただただ“わが生くるはわが力ならず”というコトバを喜んで

となえていればよいのですよ」というと、その研修生は「それで安心しました。楽になりました。」

といって、なんとも言えない表情で講師にほほえんだのでした。「そら、そんな喜びの表情が素直に

出ているのは、もう神さまなんですよ」と講師は言ったのでした。講師の答えもおもしろいのです

が、何といっても、この研修生の問題の提起の仕方と、テーマそのものが美しいのであります。


 さて、「生長の家は、最後の完成の教えである」といわれています。それは、どうしてでありまし

ょうか。それは、尊師谷口雅春先生が、全人類を代表して提起されたテーマが、最後にして最大のテ

ーマであり、それをどこまでも輝かせられたからであり、そしてそのテーマは永遠に輝きつづけてい

るからなのであります。すなわち、「神が完全であるならば、どうしてこの世に不完全があるの

か?」というこのテーマは、『生命の實相』のどの文字からも、どの行間からも、美しく輝きにおっ

ているのを、きっとあなたも感じられていることでありましょう。



2011年08月09日 (火) 00時40分
(399) 懐かしいです。 投稿者:元研修生
アップありがとうございます。

懐かしいです。私も当時、榎本次長先生から、

研修を受けました。

そののち、練成部次長から

幽斎殿の部長になられたのでしたね。


小島博先生の話や、服部仁郎先生の話などを

よくしていただきました。

楽しかった思い出です。

ありがとうございました。



2011年08月09日 (火) 00時45分
(403) 「本物の生長の家です。心が洗われますね」 投稿者:ひめまる
心が洗われますね

こういう熱心で純粋な

先生の本物の「生長の家」の教えを

拝見すると・・・・。

ありがとうございます。



2011年08月09日 (火) 01時23分
(409) 訊けブログより 投稿者:わたしも藤原ファン
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65547211.html
藤原先生と云えばこれ。
名文ですよ!


2011年08月09日 (火) 12時02分



(414) 是非、お気に入りに「谷口雅春に訊け」を 投稿者:   愛の黎光


お薦めブログ。

素晴らしいブログです。

是非、お気に入りに加えてください。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65547211.html
非道なことをされた

継母・・・

どうしたら

和解できるのか?

ものには裏と表とがあるように、人生観にも表(実相)から観た人生

観と、裏(現象)から見た人生観とがあります。この自分の側(現象

面)から見た人生観でありますが、それは人生とは魂修行の場であ

り、道場であるとする観方であります。私達の霊魂は永遠に不滅で

ありまして無限に向上し続けているのであります。

 どんな問題でも、ちょっと大変だと思われるような事件でも、あ

あ私の魂の修行のために、向上のためになくてはならない尊い問題

が今与えられたのだ、これは私に必ず解決する力がある証拠だと信

じて「ありがとうございます」と感謝して受けたとき、どんな問題

でもスラスラと解決するのであります。

 人間はもともと神の子であって無限力が与えられてありますか

ら、どんな問題でも逃れようと思わず、「ありがとうございます

」と感謝で受けたとき必ずよくなるのであります。

 向う倍力といって、逃れようと思わなければ、五の問題ず十の力

が湧き、十の問題が与えられたらニ十の力が湧いてきて必ず処理で

きるのであります。このことを信ずることが大切であります。すべ

て何でも他人と比べるぐらい無駄なことはないのであります。

 人間の不幸の原因はみんなこの比べたがる心から起こるのであり

ます。比べることは相対でありますから、不足はあっても感謝など

ありません。感謝とは絶対のもの、必要なものとして、また神様か

らの授かりものとして受ける心であります。「私だけが何故であろ

うか」と考えるとき、ある力も失われて苦しみは増すばかりであり

ます。





2011年08月09日 (火) 18時27分




2012年07月19日 (木) 19時28分




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