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(322) 換骨奪胎の「雅宣教講習会」実況報告@ 投稿者:参加報告者




      12・4(日)兵庫県講習会実況報告<その一>




合掌、ありがとうございます。

12月4日(日)に行われた兵庫教区講習会の実況を御報告させて頂きます。私は、開祖・谷口雅春先生の講習会、二代目・清超先生の講習会、そして現在の三代目・雅宣総裁の講習会と三代にわたる生長の家総裁講習会を体験している者であります。

 本日の兵庫教区の会場は県下7会場で行われ、メイン会場は神戸市のワールド記念ホール(最大客席数は1万席)でありました。天候は晴れ、JR三ノ宮駅、講習会場のあるポートライナー市民広場駅には小さい「聖旗」を持った中年や老年の案内の方々が合掌しながら挨拶、誘導の案内をしてくださっている。ほとんどが白鳩さんである。また、昔は常であった男女青年の姿と元気のよい声が聞こえない、やはり、青年会は激減し壊滅に近いのではないか?との感を抱いた。



            <午前の部・その一>


午前10時開会、(この時点でのメイン会場であるワールド記念ホールの参集者は、1階アリーナ席は約半分、可動席は目算で20%程度、2,3階は10%程度であった。)司会の白鳩女性は、一瞬、宝塚から駆けつけたような男装の麗人かと思える人であり、シッカリした口調での司会振りでありました。


まず国歌「君が代」斉唱、続いて、相愛会連合会長の開会の挨拶「早朝から県下7会場へお集まりいただき感謝に耐えません。どうか最後まで総裁先生のお話をお聞き下さい」と簡単な挨拶。


(報告者の感想: 開祖・谷口雅春先生時代の講習会は確か午前9時開始で、聖歌「神と偕に生きる歌」・「實相を観ずる歌」・「宇宙荘厳の歌」などの霊的荘厳な歌を全員で歌い、次いで開会式が始まり、国歌斉唱、開会の挨拶は、各連合会長及び教化部長が、日本人としてこの天皇国日本に生まれた歓び、「天壌無窮の御神勅」や「建都大詔の御詔勅」を語り、日本国實相顕現の使命感そして教え親・谷口雅春先生への感謝を述べられ、講習会での真理の真剣な研鑽を促されたものである。本当に、大きな隔世の感を感じたのである。)




<白鳩会・純子総裁の講話概要>


<< 如何にすれば幸福な人生を歩めるか?人生の幸福とは?昭和5年の「生長の家」誌創刊号には、「運命とは他の力によって支配されるのではなく、心の法則を知り、それを生活に現わすことによって幸福は実現できる」とある。つまり、幸福は与えられるものではなく、自分で実現していくものである。心の法則というものを上手に使うこと、つまり「心・口・意」の三業(“業”とは習慣の積み重ね)が反映して人生が創られていく。この三業の使い方によって幸福が実現されて行くのです。(ここで三業の説明あり)。谷口雅春先生はこの「生長の家・創刊号」の中で、「日時計主義の行き方」を推奨されている。「日時計主義」とは、言葉の創造力、再現力を応用する事、しかしこれは至難のことであるが、心の習慣を変えればよい。この道具が「日時計日記」である。(1日1ページの日記といつでも自由に書く“自由版”あり)。この日時計日記の特徴は、良いことだけを書く、あたりまえと思って普段は見過ごしている事(住む家がある事、家族が居ること、三度の食事がいただけること、洗濯機が動いて洗濯物が干せる事、紅葉が美しく色づいている事など)を書くのです。『幸福を招く365章』P.98に書かれているように、普通は与えられていないものに目が行くのであるが、幸福は与えられたものの中にある、既に与えられている多くの恵(めぐみ)に感謝する、そうすると創造力や再現力が働いて人生の幸福が実現されていくのです。『ウグイス餅とバナナ』P.65には「心の向きを変えて」というところがあり、私たちは普段、世の中の悪い出来事の情報を耳にするほうが多い、そうすると悪だけがあるように見える。しかし、このようなときには、悪への捉われ(執着)から心を放つ、そして、“きらめく一瞬”を捉えるのです、このように、当たり前のことに目を向ける、今までと違う見方をしてそれが脳に記録されるように仕向ける。今の一瞬一瞬に何を思うかに幸福の実現が掛かっているのですから、豊かな明るいめぐみを心に強く印象づけて生活いたしましょう。>>


(報告者の感想: この純子総裁の「日時計主義」による幸福の人生の創造に関するお話は、初めての参加者にもよく分かる内容ではありますが、これだけでは普通一般の文化教養講座と同じ、カルチャー教室である。もう少し、生長の家としての特色が出て欲しい。女性の立場から見た女性自体の幸福な人生・生活とは?のお話も必要ではないか?所謂、男女共同参画やジェンダー・フリー、パラサイトシングル思考は決してそのまま女性の幸福には結びつかない。なぜ神はこの世に男女二性を創り給うたのか?女性の天分・役割についても初参加者にも生長の家の深い真理を語って貰いたいものである。特に、生長の家意外ではどこも説いていない事――家庭教育における女性の特殊な位置と役割についての開祖・谷口雅春先生の『生命の實相』第13巻(P.49〜50)に書かれている御文章,<・・・この妻あるいは母親という位置は非常に微妙な関係にあるのであります。というのは、「下の者は上の者に如何に従うべきか」ということを示すのが妻たるものの位置であります。・・・上でも下でもない位置にあって、最高の者の次位にあって、そのほかの人よりは高い位置にあって模範を示し得るところの、結局妻という位置にある者が、良人に従順に仕える手本を示すということによって、妻以下の地位にあるものが従順になってくるのであります。・・・>このような宇宙の法則の深い真理を説いてこそ、生長の家の講習会となるのではないでしょうか?)



<体験談発表>


Aさん(女性)の体験談:

「21年前、長男の吃音と次男の全身アトピーで苦しみ悩んでいた時に、ポストに入っていた白鳩誌と母親教室に誘われた。そして、それまでに聞いたことのない話を聞いた。「必ず良くなる、良くなるしかない」というコトバを頼りに、先祖供養・神想観・練成会参加・両親への感謝・主人中心の生活と信仰、次男のアトピーは8歳で完治。学校のクラブでの次男のイジメも讃嘆日記・日時計日記を書かせてそれを脱却できた。そして自宅で母親教室を開く、かくして10年、自分の変化に自分で驚く、全てのひとに感謝できるようになり恐怖感からも解放され自信を持って生きれるようになりました。現在は青少年育成対策部長をしております。」


Bさん(女性)の体験談:

「昭和51年に結婚、男の子3人のまだ小さい時、主人が急死し、そのショックで網膜剥離に近い状態で、外出も最小限となり、かくして20年、しかし、子供たちは素直に育って行った。6年前、母親教室に始めて参加、「明るい顔をされていますね」と言われ、とてもうれしくなり、講師さんの体験を聞かせていただき「大丈夫ですよ!顔をあげて!」、このコトバが胸にストンと落ちて恐怖心がなくなった。聖経も暗記した。文字も書けるようになり、四時半起床、神想観、聖経読誦を継続、希望の家も見つかり6人家族で暮らしています。自信を持った生活ができるようになり、この四月から母親教室のリーダーもさせていただくようになりました。」


Cさん(男性青年)の体験談:

「大学院時代に夢も目標もなく、就職も決まらず、自分はダメ人間と思った。このように人生の進路を見出せず人生のこれからの進路で悩んでいた。2009年に札幌で練成会に参加、親への感謝を教わり、帰りがけにビールを買って帰り、父の前に置いて「オヤジ、飲もう!」と言ったら、父はとても嬉しそうであった。24歳の時に生長の家は本当にスバラシイと思った。コトバの力で絶対うまく行くと信じ、ロシアへ留学しに行く夢も叶った。希望の会社へも入り、そこで環境技術を世界に発信して行くつもりです。24歳の時に生長の家の教えのすばらしさがやっと分かった。本当にスバラシイと思った。生長の家を信仰していたおばあちゃんが81歳でなくなった。すべて、お婆ちゃんのおかげです。(涙ぐんで)おばあちゃん、アリガトウ!」


(報告者の感想: 本来の『御教え』は信徒の体験談の中に生きている!ということは、地方講師の皆さんが、本当に本来の『御教え』に従って信仰の門をたたく人々の病悩苦を真剣な気持で救っておられるからだと考えるからである。と同時に、講習会は信徒の体験談で体面を保っていると考えてよい。総裁夫妻の講話は、どこででも聞ける一般的教養文化講座と同じく、開祖・谷口雅春先生・清超先生の御講習会の如き信徒の奇跡的体験という偽らざる真理の証し人による真理の解説がないからである。宗教独特の神秘的感動的霊的内容がない話だからである。ただ惜しむらくは、日本国の使命に目覚めたような体験談、日本人として生まれた歓びを語る体験談、日本の国の行く末を安じる青年や男性信徒の体験談が見られなくなった事である。)以下、<その二>へつづく・・・



2011年12月10日 (土) 17時25分


(323) 換骨奪胎の「雅宣教講習会」実況報告A 投稿者:参加報告者



      12・4(日)兵庫県講習会実況報告 <その二>




             <午前の部・その二>



<雅宣総裁の午前の部の講話の概要>


  定石となったファンファーレ調の音楽が場内に大きく流れ、しばらくして雅宣総裁は中央演壇に立つ。舞台正面の大型テレビスクリーンを見ると、真紅の“勝負ネクタイ”、合掌し「ありがとうございます」。(雅宣総裁の登壇と同時に、演壇下の左右にボディー・ガード役とおぼしき男性が立って、会場の様子をしっかりと見ている。)


<< 本日の講習会では赤ちゃんも大勢来ており、神様の御徳を称える“場”の体験をしている。わかりやすい話の信仰を共有したいと思う。午前中は、初参加者を対象とした信仰の中身について話します。その話しの中で疑問点があれば質問用紙に書いて出して頂きたい。午後の最初の時間にお答えする。このように午前中は、生長の家の教義(原理)の話をして、午後は生活篇の話とも言うべきもので、あと一年半で原宿の地を引き払い、つまり都会生活を引き払って、八ヶ岳山麓の森の中へ行きます。

  森の中へ敢えて行くというオカシイことをする理由、天変地変や原子力災害の時代にあって、これからどういう生き方をすべきかについて話します。そして最後に、生長の家の最も大切な行持の一つである神想観のさわりを10分ないし15分、世界平和の祈りで終了します。では先ず、生長の家の信仰の中身についてお昼まで話します。


「唯神實相・唯心所現・萬教帰一」この四文字をメモして憶えて帰って欲しい。

  最初の「唯神實相」が生長の家の根本的な教えであり、ただ神のみあるのが實相であると云う意味である。神とは何ぞや、實相とは何ぞやということであるが、神とは唯一絶対神のことをいう。日本の神道では八百万の神が登場するけれども、多神教と一神教とは矛盾はしない。昔の人は、目に見えない偉大な力を神と名ずけたのです。目に見えない力があり、その奥に色々あるというのである。このカクリミという意味が神というコトバとなったのであるが、神には三つの意味があります。@唯一絶対の神,A表現神(唯一絶対神の智慧・愛・生命に関する色々な属性の一つ一つに名前をつけて表わした神)B霊神(偉大な徳を積まれた人の霊魂を神として祀る)、これらの表現神や霊神を通して唯一絶対の神を拝むのです。


  唯一絶対の神が造ったものは完全である。もしも、唯一絶対の神が不完全なものしか造らないでいたら、信仰は成り立たないし、皆は信仰なんてしない。全幅の信頼ができるものは完璧なものである。これを實相という。一見こう見えるというものは、本当のものとは随分違う。この一見こう見えるものを現象と云い、本当のものを實相と云う。生長の家では、現象・實相というふたつを明確に分けるのである。世界を神が造ったと考える場合にも、我々には分からないことが沢山あり、その全部を知ることは出来ない。本当の事は殆んど知らないと言っていい。ここに花瓶に生けてある百合は百合であって百合ではない、他の国ではリリーとも云うしフラワーとも云う。また、色彩の感覚は動物によっても違う。しかし、神を信仰するのであれば、神の創ったものは完璧と考えよう。


  神の造った完全円満な世界があるのです。現象は我々の感覚器官を使って色々と感じている世界であり、言うなれば翻訳された世界を見ているのである。めがねを通して世界を見ているのです。そして善がある、悪があるという。このように各人が心に捉えた世界を見ているので、この世界を現象世界と云い、このことを「唯心所現」というのです。現象に対する執着心を取るには、現象はあくまでも各人の心に随って現れている仮の世界と考えて、その奥に完全な世界があることを知らなければならない。私たちは絶えず實相世界からのメッセージを受けているのであるが、現象に執着していると、この瞬間瞬間に来ているメッセージが聞こえてこなくなる、そこで、神想観をしていると實相世界からのメッセージが聞こえてくるのです。


 次に、「萬教帰一」ですが、この意味は、萬(よろず)の教えは一つに帰る、という意味で発祥元は一つということです。世界には色々な宗教があり、その時代時代に応じた説き方をしている。しかし、これを横に並べてみると、共通している一点がある。この共通の一点を認め合って、その他の説き方の違いの部分は時代や場所の文化の違いとみるのです。初めての方々、よろしいですか?


 横の真理「唯心所現」について、

現象と實相の違いについては『幸福を招く365章』P.72〜73に<水の入ったコップに箸を入れると箸は曲がって見える>喩えで谷口雅春先生は説明されているが、この場合は肉眼で確認できる喩えである。しかし、白い百合の喩えでは、肉眼では白百合の實相は見えない、生きている人間についても肉眼では實相は見えない。この様なときには、理性とか論理で追求して現象の奥にもっとすばらしいもの、實相とか實相世界があることを知るのである。五感による認識というものは、不完全であり可変的でありひとによって変わるものであるから、われわれは實相世界からのメッセージを直感とか第六感とか良心でとらえるのである。この感度を上げるには神想観を含め、いわゆる三正行を続ければよい。

   悪・病気・貧乏などの悪しきものは本当に存在するものではなく、人間の心の創作である。かといって心で思った通りに生きられるほどこの世界は単純ではない、人間の心には、@意識している心(現在意識・顕在意識)とA無意識の心(潜在意識)があって、思ったことを実現するには、潜在意識からの解決が必要である。また、沢山の人の心は潜在意識のところで共通しているところがあって、今日ここへ来た人は、講習会へ行こうと思った人だけが来ているのです。戦争・不況・テロ・原発被害も潜在意識の働きが大きいのであって、神が起こさせているのではない。実現したくないものでも恐怖心で起こるものもある。

  この様な心の法則を纏めれば、次のようになります。@因縁果の法則(因が縁に触れて果を結ぶ・偶然はない) A心が物に現れる(感謝の心が贈物となる) B動反動の法則(与えよ、さらば与えられん C親和の法則(似た心を持ったものが現われる、交通事故・テロ・戦争など) D認めたものが現われる(悪があると認めると悪が現われる、だから、日時計主義を広めて明るい社会としなければならない)。



(報告者・注: 時間はこのあたりで正午近く、メーン会場は舞台左右から後方の舞台裏の席は空席、舞台正面のアリーナ席、可動席、2〜3階席は、目算で90%近くは着席の状況、人数は約7500〜8000人と云ったところであろう。しかし、驚いたことに正午前に拘わらず既に出席の義理を果たしたと思しき人が数十人ゾロゾロと帰って行ったのが見とれたのである。)

 
「萬教帰一」について

  この世界には宗教同士の“いがみ合い”があるが、萬教が帰一している“一”を伝えていかなければならない。生長の家は、「人間神の子」の教えです。仏教では「即身成仏」つまり、この身このまま成れる仏であって修行の結果仏になるのではない。また、「山川草木国土悉皆成仏」で、全てが成れる仏であるという。本当のすがたは、完全円満な實相世界であるということであります。この「人間は神の子」は聖書にも説かれている、マタイ伝福音書の29節に<あなたがたの父は天にいます父>と書かれており、キリスト教は伝統的には<人間は罪深い存在>といわれて来たが最近では人間はすばらしい存在だと説くようになって来ています。 時間が参りましたので、以上で午前のお話を終ります。 ありがとうございました。(会場、拍手)



(報告者の感想: 会場では録音禁止のため私のメモ記録を見ての雅宣総裁の講話の概要です、その通り一句一句正確に録音起しをしたものではありません。しかし、雅宣総裁がどのような内容の講話をしたのかの概略だけはつかめると思います。次に、雅宣総裁の午前の部の生長の家の教義に関する“物言い”がありますので次に記述いたします。


@ いつも思うことですが、「萬教帰一」についての雅宣総裁の説明は、大切な事を抜かしている点において説明が本来の『御教え』から外れている。それは、「生命の實相哲学」あるいは「唯神實相哲学」というカギで以って萬教をひも解けば、萬教は一つの真理を説いている事がわかるのである、と言う説明である。開祖・谷口雅春先生は、世の中の宗教は○○教(宗)と大抵は称している。この「教」とか「宗」は“宗門”と云うそれぞれ一つの真理へ到る「門」である、いつまでも入口の門のとこるに立ち止まっていないで、ズンズンと家の中へ入って行けばやがて奥座敷に達する、ここで数多くの門から入った人達は、みな奥座敷で一緒になる。この奥座敷こそ萬教の究極の一つの不変にして普遍、かつ久遠悠久の「一つの真理」のこと、だから生長の家は「教」とか「宗」と云わずに「家」と称する。このことが最も重要な肝心要(かなめ)の点である。


A 實相世界の説明において、實相世界とは空々漠々としたボンヤリとした寂しさ漂う世界(寂光土)ではなくして、大光明、大歓喜の活気凛々呼たる世界で七つの特徴を備えている世界、七つの特徴とは、(イ)中心帰一の妙有世界 (ロ)陰陽の秩序整う世界 (ハ)無限創造の世界 (ニ)金剛不壊の世界 (ホ)遠心・求心調和の世界 (へ)無限包容の世界 (ト)円満完全至美至妙の世界、
この位の説明は初心者に対してもすべきである。それとも敢えてここまで踏み込まないのは、この説明をすれば、雅宣総裁の忌み嫌う日本の國體、夫唱婦随、日本文化にまで説明が繋がるから困ると云うのであろうか?しかし、これは、生長の家の根幹の教義にかかわることである。


B 教義の説明において抜けている重大点がある。雅宣総裁は敢えてこれを無視している。これはいうまでもなく、「国家の成仏」すなわち、「生命的国家論」である。「日本國の實相の把握」である。これ無くしては、生長の家の教義の説明は、100点満点ではなく50点に下がってしまう。しかし、雅宣総裁は、「生命的国家論」・「實相日本國」・「真理国家」と云った点については、開祖・谷口雅春先生とは正反対の考えをもっている。だから、敢えてこの重大な教義を棄て去り、専ら「日時計主義」に最大の重点を置いている。まさに平和ボケしたセレブ婦人中心の小市民的な文化教養団体化している。開祖・谷口雅春先生の本来の『御教え』は原宿にはない。もはや、日本国に対して雅宣教団は霊的貢献をしていないのである。これではいけない。一日でも早く、「個人の成仏」・「国家の成仏」両者揃った本来の生長の家に戻さねばならぬ「本流復活」の理由がここにある。(以下、午後の部へつづく)



2011年12月10日 (土) 17時31分


(324) 換骨奪胎の「雅宣教講習会」実況報告B 投稿者:参加報告者




     12・4(日)兵庫県講習会実況報告  <その三>




             <午後の部・その一>



  総裁講習会午後の部は、兵庫教区白鳩会聖歌隊の合唱から始まった。歌われた聖歌は、三つで「落ち葉よ」(恵美子先生作詞)・「をみなこそ」(輝子先生作詞)・「浄まりて」(清超先生作詞)であった。往時は、聖歌隊合唱は昼の休憩の時にあり、午後の部は受講者全員による「聖歌」斉唱から始まった。続いて「神想観」の時間がキッチリ30分持たれたのである。


  いつのまにか、開祖・谷口雅春先生作詞の「聖歌」が講習会ではあまり歌われなくなった。そして今日の総裁講習会ではついにゼロとなってしまった。完全に霊的厳粛さと荘重な雰囲気などは無くなってしまったのである。これ一重に雅宣総裁の一存によるもので、誰も諌めるものが無くなってしまったのである。おそらくプログラムの中身まで事前に出すように指示し、雅宣総裁は何度も赤ペンを入れて自分の意に沿うよう修正しているのであろう。教区幹部は、開祖・谷口雅春先生の「聖歌」を入れたいが雅宣総裁が許さない。雅宣総裁は「神想観」さえも講習会のプログラムから消し去ろうとしている。現に最近では正式には「世界平和の祈り」の時間とし、そのときに少しだけ「神想観」の“さわり”を入れている状態である。それでいて講話の中では、<「神想観」は生長の家の大切な行事の一つ>と説明だけは行なっている。まことにすべてにわたって言行不一致の矛盾した考えの人である。


(報告者・注: 「聖歌隊」の合唱が終るとゾロゾロと人が帰り始める。昼までで帰ったひと(義理を立ててきた人)も多く、さらに「わたし、聖歌隊で歌うから必ず見て帰ってネ!」といわれて来た人たちが帰り始めた様子、メイン会場で残った人はピーク時(7500〜8000人)の半分程度(4000人程度)になってしまった。如何に義理で仕方なく来た人、ポートライナーの切符つきだからちょっと顔を出すだけでいいのよ、と拝み倒されてきた人、あるいはお弁当だけを目的に参加した人たちが多いかが分かるのである。宗教講演会なら当然出席するはずの真剣な求道者や愛国者は極めてわずかしか来ていなかったでしょう。)



  雅宣総裁の午前の講話に対する質問に対する回答の時間であります。20枚ほどの質問が書かれて提出されたようであるが、時間の関係で、このうち8人の質問へ雅宣総裁から回答がなされた。その概要は次の通りであります。


質問 1.「悪人と見えても、實相は善人である。そうすれば、善人の實相は?」(小学生・7歳)

総裁の回答: 「善人の實相はもっと善人である。ただし、これは7歳の小学生むけの答えです。一般の人たちへの答としては、善というものは人の見方によって異なるもの、同じ善であってもお互いにぶつかることもある。しかし、例えば平面交叉点を立体化することの如く、より高次元の自覚が出来てくるとぶつかる事はなくなっていく。實相世界は無限次元であるから、ぶつかったように見えてもぶつかっていない。また、悪い人は自分の足りない点を教えてくれる場合があるから、ぶつかること自体は悪とは云えない。気づきであり、ありがたいことである。」


質問 2.「實相と現象に関する質問です。人間にも植物にも實相がある。そうならば、お金にも實相があるのですか?」

総裁の回答: 「お金自体には實相はありません。お金は、人間の善意(便利さ)の現われであるともいえる。しかし、大量の実体の伴なわないコンピューターの世界で動く金融取引は人間世界を混乱に陥れるから、そのような場合は自ずから答えは変わる。といっても、お金は人間が工夫して作り上げた道具であるから、工夫したもののなかにも、實相に根ざすものもあります。」


質問 3.「現象から實相を覗きたいのですが、どうすればよろしいですか?」

 総裁の回答: 「われわれは、スクリーン(心のレンズ)を通して實相を見るのであるが、この場合、スクリーンにこだわっていると向こう側が見えない。・・・スクリーンの上に手をかざすと影ができる。このように本物(の手)と影(の手)とは別、影を通して本物(實相世界)を感じることができる、つまり間接的に感じるのです。・・・現象にも、眞象と偽象があるから、偽象にとらわれないように、そのためには、心のクセを良い面をみるように習慣づけるとすばらしい人生となる。神想観は心のレンズが透明になろうとするための心の修行のひとつです。」(報告者・注:なんだかよく分からない。的から外れているような・・・)


質問 4.「病気になったりすると、病気がないということがわからなくなるのは?」

 総裁の回答:「現象世界では、病気になると薬を使ったり病院へ行きます。・・・現象世界では病気があるといえる。病気がないと云うのは、實相世界のことです。・・・表現がうまく行かない時(悩みの解消が出来ない時?)には病気という表現となって現れる。ある場合には、病気は業が消えていく姿であるといえる。・・・ないものは消えていくのです。・・・」(報告者・注:この質問に対する答えとしては、わかったような、わからぬような・・・なんだかよく分からない!)


質問 5の1.「生長の家でいうところの神とは、三つ(神の三義)のうちのどれですか?」

総裁の回答:「生長の家では、唯一絶対神、つまり創造神を本当の神として説いている。世の中には色々の宗教があり、それぞれが色々な名前を神に付けている。が、それらの色々と名づけられた神を通して唯一絶対神を見ているのです。」


質問 5の2.「實相が完全円満だったら、何故生まれてきたのでしょうか?」

総裁の回答:「人間は實相の完全さを表現するために生まれて来ているのです。そして、自分自身が表現したものをみて満足するのです。人間は無限の表現を内部から求める、無限の追求である。このように無限を追求し表現をしようとする無限の意欲があるということは實相があるという事になります。」


質問 6.「イスラム教やヒンズー教に共通する一点とは何ですか?」

総裁の回答:「仏教やキリスト教の萬教帰一のことは『生命の實相』のなかで詳しく説かれていますが、イスラムやヒンズー教についてはありません。これから、時間を掛けて研究していくところです。」(報告者・注: 時代を超えて伝えられてきている優れた宗教教典は、霊感で書かれたもの、霊感で書かれたものは霊感で以って解釈されなければ真義は判らないのではないですか?雅宣総裁殿!)


質問 7.「神社や氏神様には、どのようにしてお詣りすればいいのですか?」

総裁の回答:「地方のある地域を霊的に護る役割として氏神がある。第二義の神様である。私もジョギングの途中でお参りするが、『この地域を平和にお守りいただきありがとうございます』とお祈りしている。


質問 8.「唯心所現ですから、善いことのみを見たいのですが・・・、また恐怖心をなくすにはどうすべきですか?」

総裁の回答:「三正行を継続したらよろしい。@神想観を行い、こころの感度を上げること。A聖典・聖経の読誦を行い、理性によって神を知る努力をすること。そして、B愛行です。」


  上記以外の質問については、「時間の関係でここで終わりですが、回答されなかった分については次回の講習会でまた質問して下さい」、ということでありました。


(報告者・注釈: 上記の質問および回答は、録音起こしではなくメモからの再現でありますので、一字一句の完全な再現ではありません。故に、実際とは多少のニューアンスの差はありますが、概要についての理解は得られると思い記述しました。この点、よろしくご海容ください。)


(報告者の感想) 

@ 上記の質問内容から判断すると、初参加の方からの質問が多かったのではなかろうか、との感じが致します。雅宣総裁の回答も質問者に対してよく分かる回答もあれば、中には何がなんだか分からぬような回答もあります。そのうちの一つに関する報告者からの感想を述べておきたいと思います。


A それは、上記の三番目の質問です。< 質問 3.「現象から實相を覗きたいのですが、どうすればよろしいですか?」>です。これは一番難しい質問であったと思います。だから、雅宣総裁の回答も<なんだかよく分からない回答>になっているのです。この質問は、真理を本気で求めている真剣な求道者の質問である、と報告者の私は解します。「實相とはなんぞや?それを、自分の生命全体で直接把握する事は如何にすればよろしきや!」との生命次元からの問いかけであります。この質問は質問のようであって質問ではない。回答者の悟りのレベル(真理把握のレベル)が試されていると私は見ます。生命次元の問いかけには、生命次元で答えなければならない。生命次元で直接答えられない場合には、又それで答える手立てがある。

 生命次元で本当の解答を与えるには、三次元世界での理論理屈を超え、理性による真理把握を超え、所謂、百尺竿頭進一歩、「『無』の関門」を超えて實相世界へ一躍超入しなければならない。現象自己を蕩尽し、實相自己の生命と實相宇宙大生命の生命とが直接に相触れ、カチカチと音を立てるが如き(理論理屈・理性的判断を超えた)直接的生命体験をなさねばならない。これが本当の覚者の境地であります。絶対実在の絶対認識、絶対実在を自己の實相覚でもって直接認識することであります。これが古来から「悟り」・「大悟徹底」といわれているものの内容であり、幾多の求道者はこの境地を目指して修行の道を歩まれたのであります。

 しかし、雅宣総裁は未だかつてこの様な悟りの境地を披歴した事はない。生命的直接体験を体験していないからでしょう。然らば、如何にすべきや?となるわけでありますから、そこで、生命的直接体験を為された方の語られた事をそのままお伝えしたら良いのであります。そのお方は、開祖・谷口雅春先生であります。『生命の實相』第20巻P.134〜137をそのままお伝えすれば良いのです。また、『無門関解釈』第六則「世尊拈花」の公案解釈P.70−72、『驀進日本の心と力』P.133等をそのままお伝えすればよいのです。御存知ない方のために、その核心部分を引用申しあげておきます。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


<<ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。私はそのとき偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空」という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。「物質はない!」とその声は言った。で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念の所現にして本来無。本来無なるが故に無より一切を生ず。有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、「無」より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象なし。汝の肉体も無し。」では、心は<ある>であろうかと思うと、その瞬間「心もない!」とその声は言うのだった。

  今までわたしは「心」という得体の知れない悍馬があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によってわたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。「心もなければ何も無いのか」とわたしは再び声の主にたずねた。「実相がある!」とその声はハッキリ答えた。「無のスガタが実相であるか、皆空が実相であるか」とわたしは尋ねた。「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五蘊が皆空であるのだ。色想受行識ことごとく空である!」。「空と無とは異なるのではないか」とわたしはたずねた。「空と無とは異なるとは思うな。五蘊皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓く。空を無とは異なると思い「無ではない」と思うからまた「五蘊は<無いではない>」と引っかかるのだ。「五蘊は無い」とハッキリ断ち切ったところに実相が出てくるのだ。<無い>ものを<無い>としたところに本当にアルものが出てくるのだ。」

 「では実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。「実相とは神である。<ある>ものはただ<神のみ>である。神の心と神の心の顕現のみである。これが実相だ。」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。「心も<無い>のが本当ではないか。」「<無い心>は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心仏衆生三無差別と説く場合には心も無い、仏も無い、衆生を抹殺し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに実相の神、久遠実成の仏が出てくるのだ。」「それがキリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」「そうだ、肉体イエスを抹殺したとき、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きてくるという象徴である!今ここに久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ!久遠の今だ!今が復活だ!今をいきよ。」

  わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛と満ち漲った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたがそれはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼を開くと合掌したまま座っている自分をそこに見出したのであった。


 それ以来、心仏衆生三無差別の心というものが本来無いものであるということがわたしにハッキリ分かった。迷う心も無いから悟って仏になる心も無い。迷う心が進化して悟って仏になるとおもっていたのが間違いであったのである。ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである。浄飯王の王宮を出て伽耶城を去ること遠からず、菩提樹下に六年静思して初めて悟りをひらいて仏となったという現象の釈迦牟尼佛は本来無かったのである。「法華経」の中で釈迦自身が「我実に成仏してよりこのかた無量無辺百千万億那由他劫である」といったその久遠の仏のみが実在であったのである。その久遠の仏が今ここに生きているのだ!十字架上に磔けられて「神よ、神よ、なんぞ我れを捨て給や」と哀号したイエスは本来無かったのだ。永遠の神性(キリスト)――「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストのみが実在であったのだ。自分もまた明治26年11月22日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。このままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。・・・・・>> (「生命の実相」第20巻P.134−P.137より)


<<大日本国体の尊厳無比、宇宙の実相と同体にして久遠無窮なる事実・・・大日本国家は因縁仮和合の国家ではない・・・私は『無』の門関を超えて、釈尊の指頭にある金波羅華が象徴する「実在」の荘厳無二組織完備の大日本国家を把握したのである>>(『無門関解釈』第六則「世尊拈花」の公案解釈P.70−72)

 
<<金剛不壊の世界・蓮華蔵世界・・・私は此の世界を直接見たのである。直接触れたのである。絶対実在の絶対認識である。その絶対実在の世界は決して無常の『空』なる世界ではなく、金剛不壊にして、『実』なる世界なのである。>>(『驀進日本の心と力』P.133)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


  ここに開祖・谷口雅春先生は<私は此の世界を直接見たのである。直接触れたのである。>とハッキリ書かれているではないか! しかし、この様な高次元の「大悟徹底」の境地なんて初心者には理解できそうにない、却って自分には到底無理だとおもって逆に求道の心をストップさせかねないと雅宣総裁のような理性・理性と理性や論理を重視する人は言うかも知れない。しかし、「機縁の熟した人、熟しかけている人」には生命的把握ができるのである。ここのところが理性派や理論理屈派にはわからないのである。


  さらに、白隠禅師が申された如く<大悟十八回、小悟は数知れず>、所謂、「悟り」の段階も無限の段階があり、頓得の悟り、漸得の悟り、・・・と段階がある事、さらに、『無門関解釈』の中の禅宗第六祖となった慧能大師の<米熟すること久し、なお篩(ふるい)をかくる事あり>、されば、幼な子が母親の膝に無心にかき上がるが如き素直な心境にて、<コトバと真理・文章と實相とがピッタリ一致、>・<文字の中に生命あり・生命の中に文字あり・文字と生命と一体>の域に達して書かれた『生命の實相』を只管、ただ只管(ひたすら)に読み続け、神想観を修し続け、愛行を続け行くうちに、その人なりの機縁が熟して、「大悟徹底」の境地に達し得るのである。只一つ、忘れてならない事は、理論・理屈・理性的判断に捉われ過ぎると、いつまで経っても真理の周囲を堂々巡りするだけであって真理そのものへは到達出来ないと云う事だけは心に銘記して置かねばならない。この方の質問にはこの様なお答えが必要と思うのであります。

  
  雅宣総裁は平成19年の埼玉県の講習会で、「迷いはどこから来るのですか?」との質問に対して、<迷いはどこからも来ませんよ、迷いは本来ないものなんですから>と開祖・谷口雅春先生のお答えを紹介して解説すればよいのに、雅宣総裁は食堂のメニューを引き合いに出して「迷いは自由から来ます。さらに詳しくいえば、迷いは欲望追及のために自由を行使しようとするところから来る」と左脳思考100%で答えている。この四年間で雅宣総裁は悟りの面ではなんら進歩もレベルアップもしていないという事が図らずも露呈してしまった観があります。一日七時間以上のパソコン・オタク引き篭もり総裁では本当に信徒が迷惑です。猛省を望みます。(午後の部<その二>へつづく)



2011年12月10日 (土) 17時39分


(325) 換骨奪胎の「雅宣教講習会」実況報告C 投稿者:参加報告者




     12・4(日)兵庫県講習会実況報告 <その四>





           <午後の部・その二>



 いよいよ、本日のメイン講話・雅宣総裁お得意の環境論に入る。
 
 << テキストは「小閑雑感」パート18です。この本の中には、「森の中のオフィス」構想がつまっている巻です。その中の<四無量心を現すために>・・・問題意識として採りあげるべきは、人間と自然の関係である。大抵の人は、自然を愛しているという。そして、自然を愛している人は増えている。しかし、実際の行動としては自然を破壊している結果となっている。自然を破壊しない愛し方を追及していないのである。

 人間同士の関係に当てはめてみると、私はある人を愛するという。しかし、愛するが故に相手の心を縛っている事もある。だから、愛にも正しい愛と正しくない愛がある。奪う愛だけでは人類は傷つくばかり、四無量心の愛が人間には必要で、人々はこれを求めている。そこで、21世紀の共存のためには、どうしても四無量心の発現が欠かせないのである。四無量心とは、慈悲喜捨のこころのことであって、仏の理想的な心である。「慈」とは抜苦、つまり苦しんでいるひとの苦しみを取ってあげたいと思うこころ、「悲」とは楽しみを与えてあげたい与楽の心を与える事、「喜」とは人の喜びを見てその人の気持になって共に喜んで上げるこころ、最後に「捨」とは執着を放すこころ、これ等のこころは、対人関係だけではなく、自然との間に於いてでも大切であると認め実践して行かねばならぬ。

 自然界を意のままに征服して、自分たちだけの繁栄を追い求めてきたけれども、今後はこの様な考え方を捨てよ、ということである。この様なことは、“行うに難し”というが、出来ないのではなく、しないのである。宗教運動として心の持ち方の変革を広めるのである。人類社会は今までは自然界を道具と見立て、自分たちの繁栄のためのみに利用してきた。そして自然を破壊してきた。これからは、自他一体の思いを持って生きる幸せ心が大切となり、この人間を人間たらしめる自他一体のこころへの転換によって近代社会の考え方の偏重を直して行かなければならない。

 都会生活では、四無量心の実践は出来ないのです。生物の実生活を知ることが大切です。現代社会の価値観では、都会人だけが繁栄し田舎の人が犠牲になる。これは正しい人間の生き方ではない。都会は不自然にできている。しかし、都会で生活していると一見便利ですばらしいから、都会にいるかぎりこの不自然さは自覚できないのです。このような考え方にもとづいて「森の中のオフィス」構想はずっと以前から構想されていたものであって、生長の家では2004年頃から自然との共生運動を始めている。

 多くの人を集めての集会は多くの電力を使う、そして地球温暖化が進む事になる。そこで法施であるところの真理宣布に於いてもバランスの取れた方法を採りいれなければならない。ISO−14000を取得、省エネルギーと自然エネルギー重視としてのエコカーの導入、資源の無駄使いである肉食の削減を進めてきた。そして、都会の生活から森の中の生活へ入る。自然についての自他一体感を実感する。そのために、農業をするだけでなく人間としてのその他の当たり前の生活を営む。そこでは自然エネルギー産業を積極的に育て、そしてまた真理宣布活動もする。


「森の中のオフィス」はJR甲斐大泉駅からクルマで5分くらいの所にある。7棟の建物を建てる。木造二階建て低層建築。屋根は太陽光パネルとONソーラーを取り付ける。太陽熱による暖房を行う。冬場を除いて、太陽熱の利用とONソーラーで必要電力は賄える。冬場はバイオマス発電を行う。「森の中のオフィス」は現在、清水建設の手で建築進行中、1年半後に完成する。炭素ゼロを達成した上で、原宿本部を引き払い、国際本部の移転を行う。

 日時計主義の実証によって何が起こるのであるか?今までの考え方は、簡単にいえば、足りないものをテレビで教えてもらって新商品などを買う生き方であった。日時計主義では、既にあるすばらしいものに目を向けて資源を無駄にしないお手本の生活をする。これはエネルギーの消費削減に繋がる生活である。私は原子力反対の立場に変えた。電力会社は電力需要のピーク時に合わせた発電所を造っている。それでいて、現状では火力発電と水力発電だけで最大需要を賄えるのに、原子力発電を推進して来た。その訳は、原子力発電の方が利益が多く出るからである。ウラン鉱石から原子力発電のためのウランを精製する過程からは大量のCO2が発生する。自然エネルギーの開発に抵抗が多いのは既得権益を手放さないためである。生長の家の自然保護の運動は、政治まかせにしないで独自路線を果敢に行っていっているのである。>>


(ここで、雅宣総裁の環境講話は終了。会場を見ると大勢の参加者がゾロゾロと大量に帰っていく、ピーク時の三分の一近くまで減ってしまった。)



(報告者の感想)

 雅宣総裁はいつも「森のオフィス」の話になると、俄然、元気づき舌も滑らかに動き始めるのですが、会場の反応はいまひとつであります。総裁講習会の特徴の一つは、講話の途中での共鳴の拍手は全くないのです。今回の雅宣総裁の環境講話もご本人は得意然と話してはいるが、聞く側は白けている。共鳴するところがない。(100%の共鳴者は、神奈川の耕ちゃん他数名で関西地方は全くのゼロ、寂しい限り、いや、よろこぶべきか?)雅宣総裁が現在推し進めている生長の家の環境運動は何故信徒の大部分が共鳴しないのか?「聖使命新聞」・「教区の新聞」では、環境、環境、森のオフィス、森のオフィス、と持ち上げているが、全部と言っていいほどが雅宣総裁を持ち上げるために作られた記事である。これらの新聞の編集者の意識は信徒の方にあるのではなく、常に雅宣総裁に向けられているのだ。



  何故、信徒達は雅宣総裁の環境講話に共鳴を感じないのであるか?こころある信徒の皆さんには次のような心の奥底からのささやきが聞こえてくるのである。

@ 150億円を超える膨大な信徒の浄財を使ってまで「森のオフィス」とやらを造る意義が、一体どこにあるのだろうか?

A 日本人口1億2千万人の中での生長の家の信徒の割合は微々たる者、その微々たる信徒が「人が動けばCO2が出る。引き篭もりが一番!」といわれても、まともにそうだ!とは思わない。言うに云われぬ違和感を直感的に感じる。信徒のCO2削減量なんて全体からみれば無きに等しい。そんなことのために聖使命会費を奉納しているのではない。

B 生長の家がそのメイン運動としなくても、今は国中上げて真面目に温暖化防止意識、省資源意識が高まり、実績を積み上げてきている。生長の家の為すべき事柄のメイン事業や運動は環境問題以外の分野にある。

C 結局の所、「森のオフィス」は三代目個人のお遊びであり、個人的な人生目標を信徒の浄財を資金にして達成しようとしている。苦労を知らぬ三代目お坊ちゃまそのものである。この様な事業は、自分のお金を投げ出してするもの。信徒の浄財を使うとはズルイ考え!

D 自然と共生と云っても、そんなに簡単ではないことすら雅宣総裁は理解していない。ウサギの耳が山荘(べっそう)に落ちていたのに驚くほどだから、心的物的な事前準備がなされていない。森林作業・自然農業・食害動物・熊の出没・大雪などに関して傾向と対策を考えているのだろうか?

E 原宿本部を引き払うと本日明言したのだから、本部会館玄関上の御神像をどうするのか?聞くところによると、この御神像は雅宣総裁は大嫌いで、偶像崇拝と考えて取り払いたいとしたが、清超先生はそれだけはお許しにならなかったとの由。しからば、清超先生亡き今は、雅宣総裁の一存でどうにでもなる?しかし、このことだけは赦せない!

F 1年半後の森の中への移転に際し、女子職員は大部分退職の模様、男性職員でもかなりの人が退職するらしい。森の中へ行く人でも、家族は都会に残しての単身赴任が予想される。そうなれば、人財は極端に不足する。一般募集で補充したら無宗教の人の割合が多くなり、普通の会社と変わらなくなる。しかし、雅宣総裁は本心では宗教や信仰は嫌いだから、こうした性格に生長の家が変化して行くことを案外期待しているのであろう。

G 原宿本部を売却すると数百億円の現金が入るので聖使命会費の大幅減少は十分にカバーできる。信徒数の減少など気にしなくても経営は縮小均衡で維持できる。また、大好きな財テク投資も一般会社化したら信仰心の規制がなくなって自由に出来る。雅宣総裁は宗教家から企業家に変身。これで、開祖・谷口雅春先生・清超先生は喜ばれるであろうか?

H しかし、この様な事態に生長の家が変質して行くことは、天が絶対許すはずがない。雅宣総裁があくまでも自分の野望を達成するために、全権力を握って総裁の椅子にかじり付いて、言葉巧みに信徒をだまして言行不一致、生長の家の看板だけは、野望実現のために利用できるだけ最大限に活用する。この自己処罰は雅宣総裁の上に必ず訪れる。人類の歴史がこの事をあますところなく証明している。鉄槌は雅宣総裁の上に間違いなく下される。彼が、非を悔い、そして潔くみずから退去しない限り・・・。

Iここで、日時計主義で考えてみよう。日本の国土の形は「龍」、龍は雷鳴の中を天にかけのぼる霊的生物、そして日本の地勢学的位置は、形而上的日本精神とは異なる形而下的価値観の共産中国と南北朝鮮の真近に位置している。この霊的意味は何か?竜形の日本国土に住む日本人はすべて意識しているか、否かにかかわらず、非常なる現象的混乱(共産中国・南北朝鮮との思想的拮抗)の中を、唯物的価値観から唯神実相価値観へと人類の価値観の変革をはかるところの霊魂進化のリーダー的役割を果たす使命を帯びているということなのである。この大生命の摂理からみた宇宙的使命を日本人が帯びてこの国土に次々と生まれて来るかぎり、一時衰退したかに見える「日本精神」は必ず復興してくる。その牽引的役目を為すのが生長の家なのである。雅宣総裁の「森のオフィス」構想は、脇道へ逸れた行動であるから、原宿本部の幇間首脳陣に期待できない以上、開祖・谷口雅春先生の御志を継ぐ目覚めたる信徒の力の拡大によって雅宣総裁に退去してもらわなければならない。雅宣総裁の退去が一日遅れれば日本国家の霊的再生は引き戻されるくらいの自覚と覚悟を真の生長の家信徒は持たねばならない。



<午後の部・体験談お二人>


Dさん(女性)

 「15歳のときに『生命の實相』の御本を見つけ、10年間読み続けた。そして、自分に対し自信が
持てるようになり、長男が2歳のときに母親教室を開き、講師を拝命しました。その後、長男が自閉症となったが、両親に支えられて、先祖供養、両親への感謝、たえず「ありがとうございます」の言葉を繰り返して「自閉症はなおる」という本にも出会い、子供をだきしめてうれしい表情の笑顔を向けてやり続けていると自閉症も治ってしまった。現在では「和顔・愛語・讃嘆」そのものに成り切って、与える生活に徹し、生命学園の園長にもならせていただき、家族で宇治練成にも参加できました。人間は始めから、神の子であり完全円満である事も本当に自覚が出来ました。7年前からは肉食はしておりません。」


Eさん(男性)

 「会社の健康診断で慢性肝炎と判明し、日赤病院へ3ヶ月入院して退院、職場復帰をしました。心の迷いが病となってそれが消えて行ったのです。『甘露の法雨』の読誦、神癒祈願によって浄化されて消えて行きました。練成会・団参・・・すべてを神にお任せの生活、四代にわたって聖使命会員です。御先祖に感謝の生活、次女も母親教室を開催してくれています。日時計主義を実践する歓びの場が広がっている。元気になった私はこれからも一人でも多くのひとにこの『御教え』をおつたえします。」


(報告者・注: 二人の信徒さんの体験発表が終ると、また会場から多くの信徒の方々がゾロゾロゾロと帰って行きました。結局、雅宣総裁の「世界平和の祈り」まで残った人は、メイン会場では、お昼前のピーク時の目算で30%かそれを下回っていたのではないでしょうか。これを見ていた雅宣総裁はまことに不機嫌な表情で最後の「世界平和の祈り」の時間に臨んだのであった。)



雅宣総裁の「世界平和の祈り」

@ 雅宣総裁は、講話の中では「神想観は生長の家の重要な行持であります」とはいうものの、プログラムには「神想観」の時間の文字は見当たらない。単に「世界平和の祈り」と書いてあるに過ぎない。という事は、雅宣総裁は、実際は神想観が嫌いなのではないだろうか?

A 只今から神想観をしますと言いながら、まことに通りいっぺんな説明と念じるコトバを一回唱えるだけ、そして、世界平和の祈りの言葉を2回唱えて大調和(みすまる)のうたで終了、この間、10分少々である。「気合を掛けますから、驚かないで下さい」といって掛ける気合は、「イユッ」と張りのない短い気合であって、こんなものは神想観の気合ではない。「イユゥ――」は、「生湧ゥ――」であり、お腹の奥底からの<生命湧き出づる響き>を出さなければ「神想観」の気合とは云えない。

B 開祖・谷口雅春先生の神想観のまことに<生命湧き出づる響き>そのものの気合を聴いた途端に悟りが開けた人もあったと聞きます。だから、雅宣総裁も信徒の前で神想観の指導をするときには、
開祖・谷口雅春先生の神想観の録音テープ(CD)を使って、信徒と共に神想観を実修すべきである。



閉会の挨拶(要旨)・白鳩会連合会長

<< 本日は、日時計主義の生き方を両先生から学ばれたものと思います。日時計日記を書き続けると、こころの習慣が変わります。私たちは与えられている多くの恵みに感謝して、心豊かに自然と調和する生き方をしてまいりましょう。本日はありがとうございました。>>


「両先生がご退場になられます」との司会者の声で、雅宣・純子総裁は中央通路を退場、アリーナ席の信徒さんは握手を求めて中央通路に群がる。(これが、いわゆる「御孫さま信仰」の姿といえよう?) スピーカーからは、BGMとしての「使命行進曲」が音声なしのリズムだけで小さく流されていた。開祖・谷口雅春先生、清超先生時代の講習会では、終了は午後4時であったと記憶している。途中で帰る人もあったが、大抵は最後まで受講し、閉会式もキッチリ行われ、萬歳三唱し、全員横の人と腕を組んで「使命行進曲」の太鼓つきの大合唱で高揚した気持で帰途についたものである。雅宣総裁になってから斯くも元気のない雰囲気になろうとは誰が予想したであろうか?



<全体の感想>

(1) 一言で云えば、生長の家講習会ではなく、一般の文化教養講座といったところであった。一つだけ光っていたのは信徒の体験談だけであった。しかし、雅宣総裁は関心はうすく、今まですばらしい信徒の体験談を引用して真理の証明として語ったことは、寡聞にして聞いたことが無い。

(2) 生長の家講習会“らしさ”が全くなくなった事を具体的に記せば、

  @ 開祖・谷口雅春先生の作詞された「聖歌」が全然歌われなくなったこと、

  A 萬歳三唱、「使命行進曲」の大合唱が無くなってしまったこと、

  B 「神想観」の時間が軽視され、おざなりのわずかな“附けたし”となってしまったこと、

  C 生長の家独特の、「生命的国家論」・「憲法論」・「憂国論」の講話が完全に無視、無くなったこと、他の宗教講演会では絶対に聞けない唯神實相哲学にもとづく「国家の成仏」に関する話が全く抜け落ちてしまっていること、

  D 宗教的、霊的雰囲気、高揚感が無くなってしまったこと、

  E 元気の良い青年会員の姿が見られなくなり、青年会が往時に比べて壊滅状態であること、

  F 遅刻者が余りにも多く、また、途中退場者がこれまた余りにも多すぎること、つまり、義理で引っ張りだされた人が如何に多いかが分かるのである。これひとえに、雅宣総裁の講話が霊的宗教的内容に欠けており、魅力が全然無いからである。どこでも聞ける一般的な普通の話であって、結局の所、日頃のつきあいの義理を果たす場であり、御孫さま信仰信徒の憩いの場となってしまったようである。

  G 雅宣総裁の宗教講話にしても、開祖・谷口雅春先生の御講話を聞いた体験と幾多の御著書を詳しく読んだ信徒の人たちから見れば、<唯神實相・唯心所現・萬教帰一>の基礎的講話も紙一枚どころか、紙数枚の差(何となき違い)を感じざるを得ない。この差は、雅宣総裁が開祖・谷口雅春先生の御著書の全てを、御講話の録音の全てを聞かずして、開祖の言葉に内包されている“いのちのひびき”を感得せずに、左脳的理解だけのことを講話しているからである。自称でも法燈継承者である限り、大勢の信徒の指導的最高の立場の人としては、毎日開祖・谷口雅春先生の御著書を紐解き、精読・霊読を繰り返し、録音の音声の響きを全身全霊でもって受け取る、この様な最高指導者としての実修を怠っているためである。やはり、この辺で本当の『御教え』の後継者の資格ある方へ、総裁の座を明け渡すべきである。



<参考数字>

雅宣総裁は、当日帰京、早速にフェース・ブックにおいて講習会参加人数を記述していた。16274人である。

因みに、インターネットで、当日の七ヶ所の各会場ごとの最大収容席数を調べてみると、

* ワールド記念ホール:アリーナ・4800席、可動席・1936席、2〜3階・3528席

* 姫路市文化センター:大ホール・1657席、小ホール・493席

* 赤とんぼ文化ホール:大ホール・1100席、中ホール・342席

* ハーモニーホール:大ホール・1162席、小ホール・432席

* 丹波の森公苑ホール:800席

* 豊岡市民会館:1118席

* 洲本市文化体育館:アリーナ・1155席、2階・444席

以上の7会場の全座席の合計数は、18967席

実際の参加者数の推定は、メイン会場は目算8000人、地方会場が満席と推定で8703人、(但し、大ホールのみの場合は6992人)、従って、推定合計最大16703人〜最小13500人(14992人x0.9)となる。

公式発表数字は16274人であるから、メイン会場8000人(目算確認)と地方会場は大ホール万席であったと推定計算される。故に、大幅な水増し発表の数字ではない、実数に近い正直な発表数字である。(来年3月の大阪城ホールでの講習会はどのような数字の発表となるであろうか? 否、果たしてその頃まで雅宣総裁は講習会を続けられるか、仮にそうであるならば余程の●運の強い稀なる人と云える!) 完


2011年12月10日 (土) 17時47分


(327) 可能な方。本日の奈良での「講習会報告」もよろしくお願いいたします。 投稿者:あいこく11


参加報告者さん。詳細な報告ありがとうございます。あまりに早く的確な情報源であるというので、今では多くの「本部の講師・職員」「教区の幹部・教化部員」「教化部長」も欠かさず毎朝毎夕、確認してから出勤、寝る、の毎日だそうです。

あなたさまのような読者の御蔭です。

本日の奈良での「講習会報告」も、できる方がおられれば幸いです。よろしくお願いいたします。


2011年12月11日 (日) 02時34分


(331) 総裁先生が、宗教的体験談のお嫌いな理由 投稿者:家政婦のみた


  参加報告者さん、詳細な報告を丁寧にありがとうございます。

  唯物論者・雅宣総裁は、なぜ「体験談」がお嫌いかわかりまし  た。それは自分に「宗教体験がないからです。」また、「小閑  雑感」を読んでいる方は、お分かりでしょうが、宗教的体験を  非科学的であると、大変、軽蔑されています。

  それは体験談を聞く姿勢の「冷め方」を観ればわかります。


2011年12月11日 (日) 02時58分


(332) 総裁先生大事なことは、「人間神の子」ですよ。 投稿者:みよこ



あの、苦笑い。皮肉笑いですね。


2011年12月11日 (日) 03時03分


(333) ≪奈良講習会お楽しみクイズ≫正解は、奈良の講習会で「会場で」確認下さい。 投稿者:とむとむ

奈良の講習会では雅宣総裁先生の口から「人間神の子」の言葉が何回出るでしょうか。言えば言うほど、信徒の心はひきつけられて、熱気があふれるのですが・・。


 1   1回

 2   2回

 3   3回

 4   4回

 5   5回

 6   6回

 7   7回

 8   8回


   正解は、奈良の講習会で「会場で」確認下さい。

   平均0回ですが・・もしかしたら、おっしゃるかも。


2011年12月11日 (日) 03時09分


(344) 投稿者:神の子をめざす人

参加者様、貴重なご報告有難う存じます。

貴殿様がいかに生長の家を大切にされていたかがわかります貴重な文章であります。

真理の表面しか分からない者への道しるべにもなりました。
これからも宜しく御教授お願いいたします。


2011年12月13日 (火) 00時11分


(361) 《教えてください》お金に實相はない? 投稿者:新人信徒の主婦




 合掌 ありがとうございます。


≪お金自体には實相はありません。お金は、人間の善意(便利さ)の現われであるともいえる。(谷口雅宣総裁)≫

 谷口雅宣総裁先生は、「お金に實相はない」と講習会でお教え下さいましたが、「理念」自体が「実相」であるから、「理想的な働き(法)」自体が《實相》なのではないのですか。

 私が生長の家入信半年なので、まだまだ「実相」の事がわかってないのでしょうね。

 《お金に実相なし》友人や家族にも、おしえてあげようとおもっていますが、谷口雅春先生は、「理念が、実相である」と書かれていたように思うのですが、もしかかれていたら、それは、「原理主義の古い考え」なのでしょうか・・・。

いま、頭がこんがらがっています。先輩の信徒の方で、わかる方がおられましたら、教えてください。お願いします。合掌。

 


2011年12月17日 (土) 07時40分




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