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[149] 十年後の貴方へ
774 - 2009年02月09日 (月) 22時56分

金属の扉を軽い軋みとともに開くと、合成素材の床が安っぽい光沢を放っていた。硬い足音を響かせ、一人の青年がそこを歩く。
静かだ。
青年は満足げに辺りを見渡し、そして目的の部屋を見つける。その部屋の主に関する噂とは違い、ネームプレートは丁寧に磨かれていた。薄い扉をノックしても返事はない。青年は静かに扉を開けた。そこに鍵がかかっていないのは調査済みだからだ。

部屋の中は薄暗く、一人の男が何かをしていた。
「こんにちは。」
青年の挨拶にも、男は顔さえ上げない。足音高く近付いてみたが、男は何の反応もしなかった。いくら招かれざる客であるとはいえ、あまりの態度である。青年は男の正面に立った。
「博士。貴方はムスカという男を、覚えていますか?」
男は真剣な眼差しでフラスコの中の透き通った液体を見つめているだけ。徹底的に無視を決め込んでいるかのようなその様に、青年は少し苛立った。
男の手からフラスコを奪う。
「あっ。」
初めて男が声を出す。そしてようやく目の前の存在に気付いたかのように、男が青年の顔を見た。無遠慮な程に青年を見た後、ようやく男は視線を外し扉を開ける。
「おおい、誰かいないか?」
しかし廊下から、人の来る気配はなかった。
「誰もいませんよ。」
フラスコを置くと背後から声を掛け、そして口元を歪める様にして笑う。普段は人の多い研究所が、今日だけは誰もいない。男と、そして自分を除いて。偶然ではない。そう仕組んだのだ。いつからこのようなことが朝飯前になったのだろう。青年は男の瞳を見て口元を歪めた。

青年は思い出す。ようやくここまで来た、その長い道のりを――

[150] 十年後の貴方へ2
774 - 2009年02月09日 (月) 22時56分

ラピュタを悪の手から守った。
そんな達成感とともに家に帰ったあの後、壁にかかるラピュタの写真を見て涙が零れた。
父さんは嘘つきじゃなかった。しかしもう、その名誉が回復されることはない。ラピュタは壊れた。他でもない。自分が壊した。でも、きっと。父さんならわかってくれる。そんなことを思いながら、布団に入った。

翌日、親方夫妻の家に行き、何日も休んでいたことを謝罪した。そしてその次の日から仕事に戻った。しかし、何故か今までのような力が出ない。それまでがむしゃらに頑張ってきた何かが、燃え尽きたような気がした。

そんな時、親方が死んだ。殺しても死なないような頑丈な親方が、寝込んでから数日とたたずに死んでしまった。看病していたはずの親方の奥さんも死んだ。鉱山の男達も、バタバタと死んでいった。
疫病だった。
流れ者のいないこの町で、珍しいこともあるものだと医者が言った。
掘る者のいなくなった鉱山は、すぐに廃鉱となった。元々出る石もない場所だ。廃鉱にするのは簡単なことだろう。親方の一人娘は、遠い親戚とやらに引き取られていった。
当時住んでいた家は親方の好意で貸してもらっていたものだ。だから親方亡き後、家を出ることになった。
荷造りを始めたは良いが、それはたった一晩で終わった。あまりの少なさに笑う。父が死んで街を出て、母と一緒にここへ来た。もう4年くらい住んでいた筈だ。なのに、自分の荷物はいつものカバン1つに納まってしまったのだ。
そう、家具はもちろん食器や調理器具も、全ては親方と親方の奥さんが揃えてくれた物だった。カバンに入れたのは数枚の銅貨とお古の工具、そして1冊の本。作りかけのオーニソプターには未練があったが、そのまま置いていくことにした。もう、空を目指して飛ぶことはないだろうから。

若者がいないという寂れた農村に転がり込み、そこの老夫婦の家に居候した。居心地の良い村だったが、徴兵が来たので試験を受けに行く。自分が受けにさえ行けば、役人からこの村が責められることはないだろう。

適当に受けた体力試験。受かるつもりなどまるで無いのに合格してしまった。後から聞けば、大事故で多くの兵士を失った時期だったものだから、手足がついていて自力で会場へ来た者は全員合格だったということである。
兵士を大勢失ったという大事故。他でもない、あの事件のことだろう。
皮肉なものだ。
滅びの呪文を唱えなければ、自分が軍に身を置くことにはならなかったのかもしれない。

[151] 十年後の貴方へ3
774 - 2009年02月09日 (月) 22時57分

居候先を出て、軍隊に入る。
適当な訓練を受けて、適当な戦地に送り出され、適当に戦った。戦闘能力はさておき、体力にはちょっとした自信があった。大した戦果を上げることはなくても、必ず生き残る。コツがあるのだ。
しかしある日、そのコツが上官にバレた。
コツといっても大したことではない。農村で暮していた時と同じこと。流れ者を装って適当な民家に潜り込み、戦闘が終わるまで居座っていただけなのだ。上官は青年を激しく叱責し、罵り始めた。しかしその罵詈雑言が途中でピタリと止んだ。上官は部屋を出て行き、そのまま戻らなかった。
その数日後、自分に下りた辞令が諜報部隊。どうやら同じ事をやってこいということらしい。

生まれて初めて国境を越えた。
そして、国境に近い小さな村に潜り込んだ。村を出てしばらくすると、そこは我が国の領土になった。
次に、その近くの村に潜り込んだ。またそこも、我が国の領土になった。
面白いように上手くいった。
自分がやるのは、その土地の地図を作ること。裏道や、持ち主の居ない家に印をつけること。その土地の人しか知らない道も、仲良くなれば聞き出すことは容易だ。地図が出来たら村を抜け、同僚に渡す。その後は知らない。気がついたら、国境が変わっているだけのこと。同僚達が自分を人たらしと呼ぶのを聞いた。悪魔のような奴だと罵るのを聞いた。けれど、罪悪感なんてどこにもない。自分が殺すわけではないのだ。軍隊に入ったものの、人を殺すことはできなかった。目の前で人が死ぬのを見るのが怖かった。だから、この仕事は向いているのかもしれない。少なくとも死を目の当たりにしなくて済むのだから。

淡々と仕事をこなしていると、欲が出てくる。隣国の言葉を覚え、無線を覚え、暗号を覚えた。潜入する先が増えた。頼まれる仕事の幅が広がり、行き先も随分増えた。やがて近隣の数ヶ国語をマスターし、暗号無線を駆使するようになった。ようやく仕事そのものを面白いと思い始めた頃、また新しい辞令が出た。

次の行き先は、特務機関だった。

[152] 十年後の貴方へ4
774 - 2009年02月09日 (月) 22時58分

皮肉なものだ。
軍に入ることになった時と同じ感想を漏らす。何の因果か知らないが、自分はよほど特務機関と縁があるに違いない。渡された制服に袖を通し、眼鏡をかけて帽子を被る。鏡を見た青年は、見たことのある「誰か」に苦笑した。いっそ鼻髭でも伸ばしてみようか。

特務機関で最初に思ったのは、天才っているものなのだな、ということ。暗号解読は得意だと思っていたが、解読できるだけでは意味がないことを思い知らされた。これまで暗号無線といえば、伝達する文書を暗号化して無線に乗せること、もしくは送られてきた文書を解読することだった。しかしここでは、まるで会話でもするかのように暗号で無線のやりとりをするのだ。わざわざ書類と睨めっこして暗号化する場合は、二重にも三重にも暗号化する、国家機密文書くらいのものだ。驚くのはそれだけでない。暗号化のキーはコロコロと変更され、毎回違う。覚えるのではない、計算しながら話すのだ、と天才達は口を揃えた。最初は全く付いて行けずに落ち込んだものであったが、1年もすれば新人へ同じアドバイスをするようになっていた。覚えるのではなく、その場で計算しながら暗号無線を打つ。慣れればそう大したことはない。先輩達は確かに頭も良いが、それ以上に慣れの要素が大きかったことを知る。黒い制服はやがて皮膚と化し、暗号は使い慣れた外国語の1つのような存在になっていた。

ある日、書庫の整理を命じられた。黴臭い書庫の中で、過去の事蹟を引っ張り出しては読み漁ってみた。戦争が盛んな時期より、平和な時期の方が事蹟が多いのには驚いた。しかし考えてみれば不思議はない。戦争前に諜報活動を必要とするのだ。諜報部隊にいた頃を思い出す。軍は諜報部隊の情報を元に戦争をするのだ。諜報部隊より先に情勢を探るのが特務機関。初めは同じようなものだと思っていたが、全く違っていた。
近隣国のラジオ放送や、平和に弛んだ兵士達の無線を片っ端から傍受して、情勢を探り出す。付け込めそうな隙を見つけたら諜報部隊を現地に潜らせる。諜報部隊から得られた情報を整理する。本部から指示が出たら、諜報部隊を引き上げさせる。実際に戦闘が始まれば、軍服組が直接指揮を執るので出番がない、そこだけは諜報部隊と同じだった。

かつて各地に派遣されていた諜報部隊の頃とは違い、外に出ることは無い。常に建物の中で無線の遣り取りをする。暗号に慣れると飽きるのも早かった。
もっと外に出て、様々な密命を受けたりするものかと思っていたのに。
そう思ったとき、背筋に冷たいものを感じた。自分が誰を想像したのか。誰と比較したのか。
自分の部署を見渡した。あの時、あの男は「大佐」と呼ばれていた。大佐なんて肩書きを持つ者は、このような場所にいない。一番上の肩書きでも確か少佐の筈だ。
あの男は、一体何者だったのか。

[153] 十年後の貴方へ5
774 - 2009年02月09日 (月) 23時02分

地下への階段を駆け下り、書庫に飛び込んだ。かつて読み漁った事蹟を広げる。
無い。どこにも無い。その事蹟だけが、すっぽりと抜け落ちていた。今まですっかり忘れていたラピュタの存在。自分以上に特務機関はラピュタを忘れていたとしか思えない。ラピュタだけではない。彼の名も、書庫のどこにも残ってはいなかった。

数ヶ月後、入室できるものが極めて限られる地下の書庫で偶然、彼の事蹟を読んだ。名前こそ消されていたが、その暗号文は突出していた。縦長の、神経質そうなまでに整った文字。彼の送った信号から起こされた電文。名前を消されても、そこに「大佐」とあった。
その時、ここは独自に判断を下せる機関だったのではなかろうか。
「上」に送った電文が見当たらず、特務で集めた情報をもって「大佐」が指示を出していた。
その指示は、とても複雑であった。その指示は、とても困難なものであった。けれど、どうしてそれを導き出せたのか解らないほどに、素晴らしく的確な指示であった。
その暗号はとても複雑で、慣れた自分にも一度では解読できないほどのものだった。しかし、とても洗練された美しいものであった。
あの男は、一体何者なのだ。
自分が会ったあの彼は、一体どんな人間だというのだ。

その時初めて自分の地位に気付いた。上れば上るほど、入室できる書庫が増える。ならばとばかりに仕事に力を入れ、人脈を築き上げた。
いつしか大尉となり、特務機関のナンバー・ツーと呼ばれるようになっていた。人脈は裏にまで伸び、やがてそこから様々な資料を手に入れられるようになった。
ようやく見つけた調書を隅々まで読む。そこには、自分の知らないラピュタがあった。正確には、ラピュタ探索のその後が書かれていた。そこにだけは伏せられもせず、虚言としての「ラピュタ」と容疑者としての「ムスカ」が載っていた。
取調べを受けた人間を片っ端から探したが、生きているものはいなかった。何故か。いや、何故かと問うのは無粋だろう。調書に出てきた人間は皆、原因不明の事故や病気、自殺、発狂、その他諸々の理由で死んでいた。取調べを受けた人間だけではない。取調べを行った人間でさえ生きていないのだ。この調書を書いた人間もまた、高齢でもないのに死んでいた。
ようやく見つけた最後の調書を読んで、唯一処分を受けていない人間がいることを知った。驚いたことに、その人間は今も生きていた。探すのは容易だった。「廃棄処分」と書かれたその調書の時と全く同じ地位で同じ部署、しかも本部にいるのだから。
灯台元暗しとは誰が言ったか。まさにその通りだと思う。
自分の勤務する棟のすぐそばに、その研究室はある。
しかし運命の女神とは意地の悪いものらしい。今まで鬱屈とした穴倉で仕事をさせておきながら、穴倉に興味を持ったところで急に外へ引きずり出されるのだから。
それから一年ほど慌ただしく国内を飛び回っていたが、ふと目の前に茶色のコートが翻っているように思えた。久しぶりに外の空気を吸って、頭がどうかしたらしい。もうどうしようもないほどに、彼のことが気になっていた。
だから、動くことにした。

  * * *

「おおい、誰かいないか?」
人を呼ぶ男を妨げ、青年がその背後を押さえる。
「誰もいませんよ。」
男の求める助けは来ない。口元を歪めて笑みのようなものを浮かべた青年が扉を閉めた。

[154] 十年後の貴方へ6
774 - 2009年02月09日 (月) 23時04分

男は思っていたより落ち付いていた。取り乱して騒ぐのを想定していたのだが、思っていたより扱いやすそうだ。青年はここへきた目的を果たし易くなったと安堵する。自分の立場を弁えているのならば、男は質問に答える筈だ。
「博士を助けに来る人はいません。」
背後から念を押すように青年が言うと、男は振り向いた。
「じゃあ、君でいいや。」
どうやら男が呼んだのは助けではなかったらしい。青年は愕然として目の前の男を見た。
「それ、片付けて。」
不機嫌そうに頭を掻き、呟いた。
「その液体は衝撃に弱い。だからもう、使えない。」
言われてフラスコを見ると、液体は濁りなにやら沈殿物が揺らめいていた。
男が持っていたのは透明な液体だった筈だ。青年が乱暴に奪ったせいで、その液体が濁り使い物にならなくなったのであろう。男は青年の思惑とは裏腹に、椅子に腰掛けて居眠りを始めていた。
「こちらの質問は終わっていない!」
男の身体を揺さぶり、青年が声を荒げた。不機嫌そうに顔をしかめた男が、青年を見る。
「僕は用事などない。」
男は青年から目をそらし、煩いとぼやいた。
「アンタはムスカを知っている筈だ。あいつは今どこにいる。アンタが匿っているのか?」
恫喝も懇願も、何の反応もない。銃を片手に脅してさえ、面倒くさそうに溜息をつくだけだ。もしこれが演技ならば、男は見事なスパイになれることだろう。しかし、残念ながらそうでないことに青年は気付いていた。
「僕は何を知っていなければならないんだ?」
まるで会話が成立しない。青年は苛立ち、首から提げた鎖を弄ぶ。いつもの癖だ。
「光っている。」
眠ろうとしていた男が何故か目を開き、青年の胸元を指差していた。青年は驚いて鎖を引き上げる。薄暗い部屋だからなのか、首から提げたロケットの隙間から、青い光が漏れているのがわかる。そんなこと、初めてだ。青年はロケットを開き、中に納めていたものを取り出した。
あの時、あの場所で、自分が壊したラピュタの欠片。掌の中で砕けた青い破片。
「光っている…。」
小さな石が、掌の上で淡い光を帯びていた。
それを見て、男が微笑む。
「飛行石の結晶か。やはりラピュタの親石は砕けていたんだね。」
一目で見抜かれたことに、空恐ろしさを感じた。
「何故、それをアンタが知っている!」
半ば声が裏返る。心掛けていた丁寧な言葉遣いなど、とうに吹き飛んでいる。
何故この男は知っているのだ。あの場にいた筈もないのに。
しかし事実、男は一目で見抜いた。この石がラピュタに縁のある飛行石であり、しかも砕けたものであること。何より、ラピュタが実在するものであるということを。
物語に無縁に見えるこの男が、裏付けもなしにラピュタの話を信じるはずがない。ならば男がラピュタの存在を知るという事は、それに足る根拠があるということだ。しかも石を砕いたことまで気付くとは。
「何故…。」
声が震える。
軍の中でもなかったことにされている存在。それをこの男は、何故こうもあっさりと口にすることができるというのだ。
「見ればわかるよ。」
にべもない一言で片付けられた。光ってさえいなければ、ただの青い欠片にすぎない。しかし、何故これは光るのだ。こんなこと初めてだ。
「その棚を探してみるといい。飛行石の子石がある。親石を持っている君なら簡単な筈だ。」
そういうと、男は椅子から立ち上がった。

[156] 十年後の貴方へ7
774 - 2009年02月09日 (月) 23時09分

様々なガラス器具を取り出して何を始めたかと思っていると、やがて芳しい香りが漂ってきた。コーヒーを淹れているらしい。男は大きめのビーカーにコーヒーを注ぎ込むと、木バサミで摘まんでフゥフゥと冷まし始めた。
「飲む?」
物欲しげな顔にでも見えたのだろうか。青年が狼狽しながらも頷いてみると、男は青年の分のコーヒーを淹れ始めていた。
ふと青年は、先ほどまで感じていた怒りや緊張、そして興奮が和らいでいるような気がした。
差し出されたビーカーを手近なタオルで巻いて受け取る。手元から立ち上る香りに、青年は覚えがあった。特務に置かれている豆と同じものだ。とても高価な豆なのだが、必ず誰かが買ってくる。一度これを飲むと、他のコーヒーでは物足りなくなってしまうからだ。

間違いない。ムスカはいた。
特務機関に、そしてこの研究室に。
きっとこのコーヒーを最初に買ってきた誰か、それがムスカなのだろう。
ビーカーを傾ける。焙煎や淹れ方が違っているせいだろうか。微妙にニュアンスの違いこそあるが、間違いなく同じ豆だった。
青年はもう、疑ってなどいなかった。
この研究室にムスカは来ていた。そしてこの男は調書にあった通り、本当にムスカの名前を知らないのだろう。だがきっと、ムスカを知らない訳ではない。

だからラピュタの話をしたところで、このコーヒーを飲み始めたのだ。

男が指していた棚を探していると、ロケットの光が一際強くなった。その棚を漁ると、鉱山で使われている麻袋の切れ端が出てきた。その切れ端は小さな小物入れになっており、よく見るとその袋を縛る紐には鉛の錘がつけられていた。

錘を外す。麻袋がぷかり、と浮いた。
麻袋から小さな箱を出し、その箱を開いた。
すると箱から青い光と共に、正八面体の小さな結晶が浮かび上がった。

宙に浮かぶ結晶を見ながら、その先にいる男を見つめた。男はビーカーを持ったまま机に伏せて眠り込んでいた。非日常の空間に思えた。だが、これがここの日常のようにも思えた。
何故ムスカがこの研究室へ訪れていたのか。その理由はもはや火を見るよりも明らかだった。

[157] 十年後の貴方へ8
774 - 2009年02月09日 (月) 23時17分

青年は実験台に積み上げられた実験器具を丁寧に洗って片付けた。
ムスカはここで何をしていたのだろうか。二人で議論をするようには思えなかった。今の青年のように、器具を片付けたりしたのだろうか。それとも一緒に昼寝でもしていたのだろうか。飛行石を結晶化する技術だけでない何かも、ここにはあったのかもしれない。何故かそんな気がした。

目が覚めたらしいところに声をかける。
「博士。」
もう彼をアンタなどとは呼ばない。上辺だけ取り繕った丁寧さとも違う。敬意というよりは畏敬を込めて、博士と呼んだ。しかし博士は青年の口調が変わったことに気付いてさえいない様子で振り向いた。青年は机上に浮かぶ飛行石を示しながら尋ねる。
「これの対になる結晶は、どこにあるんです?」
ムスカが持っているのだろうか。薄く汗を帯びた青年の喉が、性急に上下した。
「うん、調べられるよ。」
予想外の反応に戸惑う。調べるとは、どういうことだ。調べられるものなのか。どういう意味なのだ。

博士は部屋の隅に向かって声を出したが、困った顔で頭を掻いた。
「あぁ、今日は誰もいないんだった。」
部屋の隅にあるのは、どうやら秘書かなにかの机らしい。博士は、何で誰もいないのだと呟きながらその机に貼られたメモを手に取り、なにやら電話を掛け始めた。博士が受話器を持ったまま青年を見て、手を出す。青年が慌てて紙とペンを手渡した。手が、震える。

「僕だ。ここ3ヶ月の状態を教えてくれ。」
挨拶も何もない電話に、博士らしさを感じる。聞きたいことは山ほどある。相手は、誰だ。状態とは、何だ。何を聞いているのだ。
「うん、うん。わかった。」
博士はいくつかの数字を書き写すと頷き、礼も言わずに電話を切った。
「誰に、何を…」
尋ねようとしたが、博士はまた受話器を持ち上げていた。同じ調子で電話を掛けている。暗号とも思えない。しかし、先ほどと同じ個数の数値を書き写してから電話を切った。何度も、何度も繰り返す。どうやらメモにかかれた20件ほどの番号に、全てかけているらしい。応対は全く同じだ。

電話が終わると真新しい地図を取り出し、緯度と経度を指でなぞると一点を示した。
「ここだね。」
海を隔てた北方の国の、これは首都に近いところだろうか。
「計算して出すと北緯59度、東経18度なんだけど、これだけ離れていると半径30キロくらいの誤差が出る。」
もっと定点が多ければ正確に算出できるのだが、と博士は口を尖らせ呟いた。
「地層からすれば、この辺りに良い観測点になりそうな山があるんだが、誰も連れて行ってくれない。」
指差しているのは他国の領土だ。この博士には、国境という発想がないのだろうか。

それにしても、だ。電話の時間こそかかったものの、まさかこんなにも早く解るものだとは思わなかった。魔法のようだといったら博士は笑うだろうか。
博士が尋ねたのは数値だけ。何の暗号だ。何を調べたのだ。何を、どうすればそのような答えが出るのか。どこの、誰に聞けばそれがわかるのか。複雑な暗号も解けるようになった筈なのに、それらの数値が意味することがわからない。
声が震えた。
「教えてください。」
自分にも解るように。

[158] 十年後の貴方へ9
774 - 2009年02月09日 (月) 23時18分

博士は気軽に頷いた。
「いいよ。説明しよう。」
先ほど電話をかけた先は、国内にある鉱山らしい。尋ねたのは、そこの鉱石に混ざっている飛行石の成分が光る強さだという。
「週に一度、測定させている。だから、ここ3ヶ月の結果を尋ねた。」
光る強さ、ただそれだけの情報で、何を判別するというのだ。青年が質問を続けると、博士が頷いた。
「飛行石の結晶が近くにあると、鉱山に含まれる飛行石の成分が強く光る。」
ずいぶん昔、それを聞いた気がする。いや、見た。ロケットの中の石が砕ける前に。
「そしてこれらの鉱山で、強弱を見るとだね。」
博士は地図に鉱山の位置を書き込み、示した。
「先週の光度測定時、ここが下がり。ここが上がった。そしてここが少し下がった。」
そしていくつかの点を地図に落とすとそれらを繋ぎ、緩やかに弧を描く矢印を書いた。
「あとは簡単な計算だ。その結果、この3ヶ月でラピュタはこのように動いているとわかる。」
こんなにも自然に、ラピュタという単語が出てくるのは、世界中を探してもこの部屋だけであろう。
「これだけは他と比べて桁違いの反応があるからね。軌跡が実にわかりやすい。」
「他、とは?」
博士は3つの点を書きこんだ。
「まずはここだ。」
それは今自分達のいる軍の本部に他ならない。
「この飛行石だ。そして僕はここから動いていない。」
次に指したのは、さきほどの北方の国。
「そしてここ。これは時々動くけれど、ここ3年はこの範囲からそう大きく動いてはいないようだ。」
博士が小さな円を描いた。地図の縮尺を考えても、そう広くはないだろう。
その次に指したのは、海に書かれた点だった。
「ラピュタの親石にしては反応が薄いからね、砕いたのだろうとは思っていたんだよ。」
そして今度はいくつもの点を落とし、それらを繋ぐ線を描いた。
「これが最近一番動いている石、つまり君の石だ。未精製の石を持っているのかと思っていたんだけれど。」
博士がまた海の点を指す。
「これの破片が、全部海に落ちたんじゃなかったということだ。」
地図に書かれたのはそれらだけ。
この石の本来の持ち主であった少女は、もう破片すら手にしていないことがわかる。今となっては少女という年齢ではないだろう。青年は彼女を思い出そうとしたが、もうその顔を思い描くことはできなかった。

青年はロケットから石の破片を取り出すと、地図の上に置いた。
「大きな結晶だったんだろうな。砕く前の状態も見てみたかったよ。」
博士は本心からそう思っているようだった。指で大きさを模ってみせながら、このくらいかな、などと呟いていた。

[159] 十年後の貴方へ10
774 - 2009年02月09日 (月) 23時18分

青年は地図を見た。
自分だと言われた矢印は、恐ろしいほど正確に自分の足跡を辿っていた。終点がここ、博士の点と近い位置にある。博士は多少の誤差があると言ったが、少なくともこの縮尺の地図上では大した誤差を感じられなかった。
背筋に汗が流れる。
博士は、一体どんな研究をしていたというのだ。
自分は10年もの間、何をしてきたというのだ。
ここにさえ来れば、こんなにも早くあの男の居場所を把握できたのに。
しかし、ここを探り当てるまでにそれだけの時間がかかってしまったのだった。

「他に説明はいる?」
博士が青年を見て尋ねた。知りたいことは山ほどあるが、これ以上聞けば複雑であろう計算方法の説明が始まりそうだったので諦めた。
「ここ、ですか。」
青年は地図を凝視したまま呟いた。その脳内には、一人の姿が明滅していた。古い、古い、けれど決して色褪せない記憶。ムスカは、ここにいるのだろうか。
海を隔てた北方の国。青年の腕をすれば、国境を超えることなど容易い。上には視察に行くと言えば良い。いや、連絡さえ必要ないのかもしれない。連絡を絶てば、任務に失敗して死んだと思うだけだろう。
そう。このまま、この博士を連れて行けば良い。

「博士。」
青年は真剣な面持ちで向き直ると、博士に声をかけた。
「うん?」
彼に繋がる唯一の糸を、手放すつもりなどない。
「一緒に行きませんか?」
博士はポカンとした顔で首を傾げた。
「この位置です。」
博士はまた下を向いて何やら計算を始めていたが、構わずに青年は続けた。
「人を探しに行くんです。」
聞いていないかと思っていた博士だったが、次の言葉で顔を上げた。
「きっと、旨いコーヒーを淹れてくれますよ。」
博士の反応に青年が片頬を上げる。
「うん。」
ここへ来て初めて、博士が微笑んだように思えた。


用意した車に博士と博士の実験道具を積み込むと、エンジンをかけて走り出す。
彼はどんな顔をするのだろうか。
あの時とは違う思いを込めて、青年はムスカの顔を思い浮かべた。

あれから十年。
今ならきっと。

昔と違い、彼と話をできるだろう。



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